黑色幽默小说

Hēisè Yōumò Xiǎoshuō
黑色幽默小说
ブラックユーモア小説

 20世紀60年代にアメリカの文壇に出現したモダニズム文学の一つの流派である。

 “ブラックユーモア”という言い方は、40年代初めのシュールリアリズムの代表的作家ブルトンの作品の中で最初に現れ、彼は自分の作品に『ブラックユーモア詩選』という題名を付けた。60年代初めアメリカの文壇に風変わりな作品群が出現した。これらの作品の傾向は完全には一致していないが、いずれも恐怖や不条理、滑稽さを合わせ、生活を理不尽で恐ろしい悲喜劇であるとみなした。アメリカの作家兼文学評論家ブルース・J・フリードマン(Bruce Jay Friedman 1930~)は1965年2月にこの種の作品の一部分を収容して改編し、『ブラックユーモア』と名付けた。後にこの名称は次第に社会に受け入れられ、このような文学の潮流のトレードマークとなった。“ブラックユーモア”の代表的な作家及び作品には、ジョセフ・へラー(Joseph Heller)の『キャッチ=22(Catch-22)』、カ-ト・ヴォネガット(Kurt Vonnegut 1922~)の『スローターハウス5(Slaughterhouse-Five)』、『チャンピオンたちの朝食(Breakfast of Champions)』、トマス・ピンチョン(Thomas Pynchon 1937~)の『重力の虹(Gravity’s Rainbow)』、ジョン・バース(Jhon Barth 1930~)の『酔いどれ草の仲買人(The Sot-Weed Factor)』などがある。

 “ブラックユーモア”の誕生は特定の社会歴史的な根源と哲学的思想が基礎となっている。“ブラックユーモア”は40年代後半、アメリカ国内で経済危機、政治危機、民族危機、文明危機などが絶えず勃発し、人々の悲観的な気分が日増しに広がるという社会背景の下で生まれた。これと同時に、人が現世に存在するという不条理感を明らかにしようとする実存主義をブラックユーモアの思想の基礎としているが、同時に実存主義の、世界は不条理で、人生は孤独である、という観念が、ブラックユーモアが力をいれて表現する主題となっている。

 ブラックユーモア小説の最も重要な特徴とは、喜劇の形式或いは手法を用いて、生きることに対する深い悲観的な気持ちを表現していることである。ここでは、伝統的な道徳観念と価値観念は完全に崩れ、はっきりした選択基準のようなものはない。文学の形式から見て、ブラックユーモア小説は伝統的な意味での悲劇或いは喜劇ではなく、文学観念全体が革新された後の現代悲喜劇なのである。存在が不条理で、人を絶望的にさせる以上、伝統的な意義における善と悪、美と醜、真と偽の区分も意味がなくなってしまった。このような態度に対応して、ブラックユーモア小説の中の人物は皆、伝統的な英雄型の人物とは明らかに違っていた。彼らは皆間抜けで、無力で、外の世界の脅威を前に、なすべき方法もなく死を待つ、などの性格の特徴を現した。技法上、時間の順序をめちゃくちゃにし、叙述は前後が飛び、人に不安感を与えた。また断片的な現実のプロットを大量の幻想や虚構、さらには理不尽なプロットを無理やり混ぜ合わせ、構成をめちゃくちゃにし、ロジックを乱した。言語の上でも変わった比喩を多用し、ユーモアの効果を達成するために様々な修飾の方法を採用することを試みた。しかしこのようなユーモアは苦痛と爆笑、奇妙な事実と平静で不釣合いな反応、残忍さと優しさを並列したユーモアである。大英百科全書では、‘ブラックユーモア’とは絶望的なユーモアが文学に反映したもので、人々の笑い声を引き出そうと試み、人類として生活の中の明らかに無意味で理不尽なものに対する最も大きな反響である、としている。この評価は公正なものであると言わなければならない。ブラックユーモア小説は、アメリカ、ひいては西洋の当代文学全体の中で重要な地位を占めている。評論家の中にはブラックユーモア小説が第二次大戦以来アメリカの小説唯一の重大な発展であると考えているものもいる。

(『文芸学新概念辞典』文化芸術出版社 1990年)

作成:田中洋子

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