呉宓

Wú Mì
呉宓
ご・ふく(ご・ひつ)

(1894-1978)

呉宓小伝

 字は雨僧、陝西涇陽の人。1911年清華学堂に入学、1916年卒業。1917年米国に留学、まずバージニア大学英国文学系に入学、後にハーバード大学比較文学系に転学。1920年、学士の学位、1921年に修士の学位を取得。

 同年帰国、南京東南大学西洋文学系教授に就任、梅光迪らとともに『学衡』誌を創刊、中国伝統文化を掲げるとともに、西洋新人文主義を宣伝した。1925年、清華大学国学研究院主任に就任、王国維、梁啓超、陳寅恪、趙元仁の四名を招いて導師とし、中西文化の両方に精通した文学歴史の専門的人材を養成した。

 1926年から清華大学外国語言文学系教授に就任、西方文学と言語の「博雅之士」という人材を養成する方案を制定した。抗日戦争時期は、昆明西南聯合大学外文系教授に就任。1944年には成都に赴き、燕京大学教授に就任した。

 解放後、重慶の北碚西南師範学院中文系教授に就任、主に外国文学の授業を担当した。文化大革命期間、残酷な迫害を受け、左脚が不自由となり、両目を失明した。

 1978年1月、故郷の涇陽で病死。同年12月広州で外国文学研究計画会議が開催され、会期中に馮至、朱光潜ら30名の専門家たちが、中共中央統戦部に連名で書簡を送り、呉宓の徹底的名誉回復を求めた。書簡には「呉宓先生の生涯を見渡し、我々は彼が一人の愛国の知識分子であったと考える。解放の前から後まで、彼は我々の為にあまたの優秀な外国文学研究者、中国語および外国語の教学人材を養成してくれた。祖国に貢献した人物であった」と書かれている。

(李賦寧「序言」『呉宓自編年譜』三聯書店 1995より)

著書・単行本

『文學與人生』清華文存之三 清華大学出版社 1993.8
『呉宓自編年譜』生活・新知・讀書三聯書店 1995.12
『會通派如是説――呉宓集』二十世紀中国学人文庫 上海文藝出版社 1998.10

 
作成:青野繁治

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