略歴
1909年生まれ。祖父は小作農。父親は5人兄弟の末っ子で、上の兄弟の働きによって啓蒙館(寺子屋)に通えた。母親は中農の出身。呉晗は父親から受け継いだ唯一の本『御批通鑑』を11歳の時に読んだのが、歴史の勉強の始まりだった。父親は県の学堂の入試に合格したいわゆる「秀才」で、寺子屋の教師に招かれ、その俸給、年20貫銭と20アールの農地から上がる小作料で、かろうじて生活していた。呉晗は長男で、弟が一人生まれる。
辛亥革命の後、父親は杭州の学校に入り、その学費によって、生活は困窮したが、卒業してから公務員となり、その数十元の給与で少し余裕ができた。失業によって、また生活に困窮したが、呉晗を中学校卒業まで学ばせてくれた。
中学卒業後、呉晗は村の小学校教師となったが、進学の夢を捨てきれず、杭州の之江大学に入学した。が予科一年のとき、大学が閉鎖となり、上海の中国公学大学部に移った。中国公学では、胡適の中国文化研究会に参加し、「前漢の経済状況」という論文を書いて、胡適に認められ、大東書局から原稿料80元を受け取った。胡適が中国公学をやめたあと、呉晗も中国公学を退学し、北平に行き、北平図書館で自習。その後、顧頡剛の紹介で燕京大学附属図書館の職員として働く。
1931年夏、清華大学歴史学科の2年に編入。1934年に父親が死去、その借金返済のため、研究院(大学院)への進学を断念し、助手となる。
1937年、清華大学は昆明に移転、北京大学、南開大学と合併し西南聯合大学となったのにともない、呉晗も昆明へ。教授となる。北平に戻ったのは、1946年である。しかし、1948年の八一五事件が原因で、解放区に逃れる。
清華大学に戻ったのは、人民共和国成立後だった。
以上『新中国の人間観』1965より
本名、呉春晗、筆名に劉勉之、趙彦などを用いた。著名な歴史学者、作家、教授。浙江省義烏県の人。幼少より、勉学に励み、11歳で『資治通鑑』を通読した。
1929年、上海の中国公学に入学、働きながら学んだ。1931年、清華大学に入学、明史を専攻し、刊行物に論文を発表しはじめる。1934年、卒業後、大学に残り教鞭を執る。1937年、雲南大学文学系教授に招聘される。1940年から西南聯合大学歴史系教授、系主任、文学院院長、校務委員会常任委員会などの職を歴任。
中華人民共和国成立後、北京市長、中国史学会理事、中国社会科学院歴史研究所学術委員、哲学社会科委部学員、全国人民代表大会代表、全国政治協商会議常務委員、民主同盟中央副主席などの職を歴任。生涯正義と剛直を貫いた。
1957年、中国共産党に加入。長年にわたる公務の余暇に歴史学の研究と著作を続け、1959年から1961年の間に、毛沢東同志の呼びかけに応じて、海瑞に関する文章を執筆し、新編歴史劇『海瑞罷官』を創作した。1961年には、北京市委員会の機関刊行物『前線』の求めに応じ、鄧拓、廖沫沙とともに、同誌の「三家村札記」欄に雑文を執筆した。
1965年11月、「四人組」の計画的陰謀のもと、姚文元が「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表、『海瑞罷官』を毒草に仕立て上げ、呉晗に対する包囲攻撃を開始、「三家村」の文学的冤罪が仕立てられ、呉晗は残酷な迫害のもと、死に至る。1978年に冤罪は雪がれた。他に『朱元璋傳』『讀史劄記』『投槍集』『春天集』『学習集』『史学與人物』『海瑞的故事』などの著書がある。
『中国現当代文学辞典』遼寧教育出版社 1989.12
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