呉祖光

Wú Zǔguāng
呉祖光
ご・そこう

(1917.4.21~2003.4.9)

呉祖光小伝

 中国現代の著名な戯劇家。筆名に緑英、呉韶などを用いた。原籍は江蘇武進。1917年4月21日に北平の文人の家庭に生まれる。幼少から芝居を非常に好んだ。1936年、中法大学在学時に処女作『廣和楼的捧角家』を創作。1937年南京戯劇専科学校の招聘により、校長秘書に就任。抗戦期間は学校について四川に転居、国文および中国戯劇史の教員をつとめながら、東北義勇軍抗日英雄苗可秀を描いた一番目の話劇『鳳凰城』を創作した。この後長期に渡り戯劇劇本の創作に従事する。
 1943年春、話劇『風雨夜着帰人』を発表、京劇の女形と官僚の妾の恋愛悲劇を描き、旧時代の京劇俳優の悲劇的境遇を深く描き出し、物語展開と人物像の豊かさにより、当時の演劇運動においてセンセーションを巻き起こした。同年、成都の中華劇藝社でプロデュースを担当したとき、『林冲夜奔』『牛郎織女』『少年遊』などの台本を創作した。1944年重慶『新民報』副刊の編集を担当時に、毛沢東の詞「沁園春・雪」を掲載発表した。1946年、上海『新民晩報』編集部に赴任したときに、諷刺話劇『捉鬼傳』『嫦娥奔月』を創作、民間伝説を借りて、人民のファシズム独裁統治を憎み、暴政に反対し、自由を求める強烈な願望を描き出した。1947年、香港大中華影片公司および水華電影公司のプロデューサーに就任。
 1949年秋、大陸に戻り、中央電影局のプロデューサーとなる。1957年、冤罪で右派にされ、東北北大荒に下放、労働改造をさせられる。1960年、北京に戻り、中央戯曲学校実験京劇団および北京京劇団で劇本作家となり、『武則天』『鳳求凰』『三打陶三春』などの優秀な劇目を創作。
 1979年、文化部藝術局に配属され、専業創作にはいって以後、京劇『紅娘子』と話劇『闖江湖』を書き、好評を博した。
 呉祖光の性格は豪快で、思想は鋭い。1979年に全国政治協商会議委員に就任してからは、祖国の文化藝術事業のために、道理にのっとって思い切った発言をした。近年発表した大量の散文、随筆は社会に存在する悪に対して、鋭い嘲りと厳しい攻撃を行なった。また京劇俳優で一字も読めなかった文盲の妻新鳳霞を助け、文革時期の肉体的迫害による障害に打ち勝って、優れた散文作家に育て上げた。

(『中国現代文学百家 呉祖光代表作』華夏出版社 1998)

著書

『中国現代文学百家 呉祖光代表作』華夏出版社 1998.1

研究資料
 
作成:青野繁治

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