周揚

Zhōu Yáng
周揚
しゅう・よう

(1908.2.7~1989.7.31)

周揚小伝

 本名、周起應、湖南益陽の人。1928年、上海大学卒業後、日本に留学。1930年上海に戻り、左翼革命文藝運動の指導に参与、1932年に左翼作家聯盟党団書記に就任、左聯の刊行物『文学月報』の主編をつとめ、30年代の文藝大衆化の討論や「自由人」「第三種人」論争において、「関於文藝大衆化」「到底是誰不要真理,不要文藝?」を執筆、1933年に発表した「関於“社会主義的現実主義與革命的浪漫主義”—―“唯物弁証法的創作方法”的否定」は、比較的系統的に社会主義的創作方法を紹介した最初の文章である。この時期彼はさらに大量にベリンスキー理論の観点を紹介し、ソ連、アメリカなどの進歩的作品を系統的に翻訳紹介した。抗日戦争前には、当時の戦いの形成に合わせて、何人かの同志とともに「国防文学」のスローガンを提出し、論争を巻き起こした。
 1937年秋には、延安に赴き、陝甘寧辺区教育庁庁長、魯迅芸術学院院長、延安大学校長に就任、解放区文藝建設のために、人材を育成するために、重要な貢献をした。編纂した『マルクス主義と文芸』は比較的全面的にマルクス主義文芸思想を紹介説明している。
 1949年、北京、天津が解放されると、郭沫若、茅盾らとともに、第一次全国文学藝術工作者代表大会の準備と開催に携わり、「新的人民的文藝」という報告を行ない、理論の面から、解放区文藝の歴史的経験を総括し、全国文聯副主席に選出された。
 全国解放ののち、文化部副部長、中共中央宣伝部副部長に就任し、一貫して文芸界を指導する仕事に当たった。
 文化大革命中は10年にわたり迫害を受けたが、1978年に職務に復帰、中国社会科学院副院長、全国文聯主席、第五期全国政治協商会議常務委員、国務院学院委員会第一副主任などの職を歴任した。
 1979年春、重要論文「三次偉大的思想解放運動」を発表、中国共産党第11期三中全会が定めた方針に対して、高い評価と科学的論証を行なって、思想解放運動の順調な発展を力強く推し進めた。1983年に発表した「マルクス主義のいくつかの問題に関する探究」は、マルクス主義の重大な理論問題に対して、新しい探究を行なっている。新たに編集した五巻本『周揚文集』において、「付記」の形で、自分自身の文芸理論的批評文に対して、歴史的な再評価を行なった。
 死去の前、長期にわたって病に臥せっていた。

易永枚『中国現代作家大辞典』新世界出版社 1992

 
著書

『周揚文集』全五巻 人民文学出版社 1984.12

 
 
作成:青野繁治

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