周梅森

Zhōu Méisēn
周梅森
しゅう・ばいしん

(1956 – )

周梅森自伝:

 私は1956年3月9日江蘇揚州市に生まれ、翌年両親に付いて江蘇徐州賈汪鉱区に移住しました。小 学校3年生のとき、ちょうど前代未聞の「文化大革命」に出会い、教師たちは「革命」に忙しく、学校は 三年間しまってしまいました。家が貧しかったので、三年のあいだ採石場で石を砕き、建設隊で働きまし た。十四歳のとき(1970年)中学校にあがって、命令されたとおり働きながら勉強しました。中学4 年で、炭鉱の中のほぼすべての仕事をひととおり終えて、毎月の生活費9元を稼ぐようになりました。十 八歳(1974年)で高校を卒業し、徐州の韓橋炭鉱に配属され、機械の取り付けの仕事をしました。五 年後、(1979年)南京『青春』雑誌を創刊し、『青春』の小説・散文の編集に転任して、賞をもらう ような小説選集を編集したこともあります。1985年3月中国作家協会江蘇分会に入って作家になりま した。
 1978年から処女作『家庭新話』を発表し始め、今まで共同出版をしたり、長編小説を一作発表した り、中編小説を九作、短編小説、エッセイを30編あまり発表しました。
 現在は中国作家協会の会員で、中国作家協会江蘇分会常務理事、江蘇青年文学工作委員会副主任、南京 市作家協会副主席です。

私はいかなる人も代表していない
いかなる人も私を代表していない

 作家というものは、とことん「私」というものを表現し、自分の作品の個性と風格を表現するべきで、 他の流派の大旗に覆われてしまってはいけない。流派は、作品の個性を扼殺し、すべての思想を文学に体 現するものである。だから、独立した人格としっかりとした見解を持つ作家は、ひとつの「私」であるべ きで、複数の 「私達」であってはならない。
 「私」を表現するためには、公のものではなく自分の価値基準と意識、ないしは思想体系を確立すべき である。ひとりの成熟した作家というのはいかなる主義も、いかなる思想も受け売りしてはならない。彼 の作品は、彼が独力で到達した覚悟と思索と発見のしみ通るものでなくてはならない。彼の大脳は、いか なる人にも属さず、彼自身にのみ属する。
 私は、作家というものは、自分の芸術の良心に基づいて、自分の民族と人民のために書くものだと考え ている。彼の作品は民族のものであるべきで、そうなって初めて世界のものとなる。私は世界に向かって 進み、西洋の現代派の手法をそのまま引用する作家や作品が嫌いである。中国の作家は、自分の自信をな くしてはならない。
 しかし、私は新しい思想と新しい文学の表現方法はすべて排斥する、というのではない。ただ、それら を吸収するとき、それらを「私」の一部分に作り変えてから作品に表現しなければならない。それらは「私」 であり、もはやもとのものではない。
 私はいかなる人をも代表していない。いかなる人も私を代表するものではなくなった。
 創作の経歴については、話すことができないが、教えられたことは少なくない。始め創作を習ったころ の作品は、みな何かの主義や思想の演繹品で、今では読むに耐えない。私は、かつて盲目的に「流行のフ ァッションショーの実演《に参加したことがあるが、結局は悲しくもそれが一時のやかましい劇にすぎな かったことがわかった。中編小説『沈倫の地』のときから始まって、今やっと「私」というものを見つけ、 自分自身の位置を探し当てた。私は自分自身に属する領地を手に入れた。私は続けてそれをうち建て、完成させていくが、それが大きなビルであろうと鳥小屋であろうと、構わない。私は、生きている間、 自分の頭を使って考え、自分の意志によってやっていく。それで十分だ。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作品集・単行本

『厳かな壊滅』(中編小説集)1985年 江蘇人民出版社
『沈淪之地』(中編小説集)1987年 花城出版社
「黒墳《(長編小説)1986年 『中国作家』第3、4期
『此夜漫長』小説界文庫・長篇系列 上海文藝出版社 1994.3/7.50元
『中国当代作家選集叢書 周梅森』人民文学出版社 2002.1
『人民的名義』北京十月文藝出版社 2017.1/46.90元

 
邦訳

『人民の名のもとに』(上・下)岩切沙樹/訳 グローバル科学文化出版 2018.10

 作成:中井晴菜

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