孫健忠

 

Sūn Jiànzhōng
孫健忠
そん・けんちゅう

 

(1938~2019.6.6)

孫健忠自伝

 道理の上から言うと,文学は私と関係が無くても良いものである。我が家の祖先から知識人が出たことはないし、家庭環境からはいかなる文学芸術の影響をも受けることができなかった。小学生のとき、どこで拾ってきたか知らないが「六月雪」という通俗的な小説を、毎晩桐油灯を照らして興味津々に読んでいた。すると突然、母親に厳しく叱られた。彼女はぼろぼろの朊を繕ったり靴を修繕したりしていたので私は彼女の光をさえぎっていたのだった。
 ある日、私は李というクラスメートから「道中日記」という本をもらった。この本をめくりはじめると、私は本に引き付けられてしまい、夢中になってしまった。南国、何が南国なのだろう?海も・・・私はとりわけこの言葉が好きだ。私は人々を正しい方向へ導く人になりたい。粉骨砕身し、人々の心の暗黒を照らしぬいていきたい・・・私はこう思った。「私もそう望むが、私には人を正しい方向へ導く人の資格があるのか?」
 聞くところによると、多くの作家は小さい頃祖母の口から最初の影響を受けたのだそうだ。私の祖母は私を訓練したが、それは文学ではなく武学と言うべきだろう。幸い、私にはとてもやさしい外祖母がいた。夜になるといつも、彼女は竹園へ李おじいさんに来てもらい、たばこやお茶でねんごろにもてなし、私の為に特に奇々怪々なこと、幽霊のことを話してくれた。私はとても興味深く話を聞いたが、身の毛がよだった。夜も深まり、部屋に寝に行くと、目の前には髪の毛をふり乱したものすごい面相の幽霊がいた。私はこのこともある種最初の文学薫陶といえるのかどうか分からなかった。
 1951年の秋、私は小学校を卒業し、湘川の境にある茶洞師範学院(すぐに 湘西民族師範学院と改名された)の初の師団司令部に合格した。そこで、周民徳先生は私に文学の情熱を燃やし、教務主任の呉継康先生、クラス主任の唐嵩蔭 先生は、私をおおいに助けてくれた。山の上の方にある閲覧室、山の麓のほうに ある図書館は私が学校にいた期間のすべての文学の土台を供給し、かつ満足させ てくれた。私はこの学校に感激した。当時、ここは文章で生き生きと描かれた 「辺境の町」であった。作家の書き方では、この山、この川、この渡し舟、この 小さな町、この日常の世間の出来事、この純朴な民間の風俗、これらはどんな 美しい魅力も備えているし、どんな感動的な芸術生命をも持っている。
 4年が過ぎ、私は師団指令部を卒業し、家から何百メートルも離れた淑浦県思 蒙完小学校の教師になった。この年、私は省の刊行物と省の新聞で子供の生活を 反映した処女作を発表した。幸運にも全省青年文学創作者会議に出席し、作家の 周立波先生の祝辞を拝聴した。
 会議の後、私は創刊したばかりのけん新聞部に転任になり、作記者と編集者を 兼任した。私の心のなかの楽しみは言葉では言い表しにくい。しかしながら、私 達の編集長は文学を好きではない人で、彼から言わせると、ひとりの真面目な革 命幹部が遊びに行くようなもので、全く認めることができない。私の文学活動は 「地下」の方式を用いることができるだけで、それはかなり秘密に行われた。後に私も認めることができなくなり、この地を離れ別の生計をたてる道を探さなけ ればならないと思った。私は決して責任を他人になす りつける気持ちはなかった 。今日の角度から見ると、自分の過ちを知って自らを責めなければならないのは 私である。私にとって、何年か仕事をしたことはまたたいへん重要であるという ことは言うまでもない。
 何年も経って、私は家族全員と故郷に帰り、その土地の家族が集まって住んで いる山中の砦に家庭を持ち安住した。私は社員たちと木造の建物に住み、同じ 釜の飯を食べ、様々な農作業に加わった。天気が曇りか晴れか、豊作か凶作かに よって、喜んだり憂慮したりする。私は彼らと深い友情を結んだが、もちろんごたごたもあったし、誤解や了解もあった。
 私はいつも思うが、もしかすると私は永遠に本当の作家になり切れないのかも しれない。私はひとつの明かりをつくりたい。たとえ人の心の暗黒を照らし抜け なくても、読者にちょっとの暖かい息吹、豆のようにかすかな光をもたらすこと ができるだろう。だから、私はとてもよろこんだのだった。

文学と故郷

 わたしが学習して創作したものは、私の故郷に対する感情とは離れられない。私は以前短編集の後書きでこのようなことを書いた。「私は私の故郷を愛している。私は故郷の山、小川、そして空に浮かぶ雲を愛している。さらに故郷の懐で骨身を惜しまず働き、勇ましく、質素で善良な民を愛している・・・このように これらすべてが私のこころを強烈に興奮させ、私の創作欲を引き起こした。」
 私は以前友達にこう言った:私のそれぞれの作品はすべて私の故郷と民族から切りはなすことができない。私は偏狭な地方主義や民族主義を主張しているわけではない。私はただ土家族のような少数民族の第一作家として、この民族の人々の生活を自分の最も神聖な職責として書き表すべきだと思う。我々の国家は多民 族の大家庭で、多民族の文学繁栄があってこそ中国文学の真の繁栄だと言える。私はこのようにして貢献すべきだ。
 一般に私が読んだ大先生方の書かれた自分の故郷の傑作には濃厚で、まるっきり違った、そしてその素晴らしさを言葉で言い表すことができないほどの郷土の味わいが溢れでていることに気付いた。沈従文が書いた辺境の街、周立波が書いた山村、孫犂が書いた白洋淀は現実の世界であるうえに作家達が作った特殊な世界でもある。

作品集・単行本

『死街』長篇小説 作家出版社 当代小説文庫 1989.12/4.55元

作成:山崎祐子

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