張一弓自伝:
1935年2月に河南省の開封で生まれ、本籍は三国時代劉備が何年かの間県知事を務めていた河南新野県である。かつて河南大学国文学科の教授を担当していた父親と高校で語学を教えている母親受手に文学の薫陶を受けた。
私の少年時代は抗日戦争中であった。私の家族はかつて河南大学について 西山区と濃西村に亡命した事が有り、私も放浪児として 西宝鶏の難民児童収容場に住み込んだことがあった。戦時中の少年時代は、知識階級で生まれた子供に、稀に見る農村の凶作と社会のどん底を体験することが出来た。
抗日戦争勝利後、私は開封中学に通い、国文の先生には可愛いがられ、数学の先生には叩かれた。魯迅と巴金の作品と中国の古典作品をこよなく愛し、侠客小説も好きで、緑林の英雄になるのが夢であった。そして、たまには年上の先輩の代わりにラブレターを代筆したりした。
解放後、私は開封高校に通い、ソ連現代文学と旧解放区作家の作品に夢中だった。校刊誌の編集人になり、また文芸活動の積極分子であった。高二の時に、叙事詩を書き全校作文コンクールで一位に入賞した。校長先生はどうしても私をマスコミに紹介したくて、「河南大衆報」に”ベビー記者”として推薦された。その当時私はまだ十六才にもなっていなかった。
1950年12月から1980年4月、私は「河南大衆報」、「河南日報」社で三十年間記者と編集の仕事をした。だが、私は決して文学を放棄しなかった。また、ロシア、フランスの19世紀古典文学の虜になった。1956年私の短編小説「母親」が河南の四社の新聞社に”資産階級人性論を鼓吹した。”、”右派の母親のために賛歌を歌う”大毒草と批判された。その後、小説を書くことをやめたが、新聞界の同僚から見れば多くの文学色彩が混ざったヒューマン・スケッチや文学レポートを書いた。
私の”文化大革命”での経歴は紆余曲折に満ちたものあった。初期:”黒 ”と批判、闘争、家財没収、しまいには、小屋に閉じこめられた。中期:誠実に批判を受けたため、抜け出すことが出来た。後期:1973年11月、願わずして、『河南日報』の副総編集長に任命され、1975年にまた恐れず河南省委 公庁の副主任を兼任した。
”四人組”が粉砕された後、私は喜びながら、これらの職務を免除されることになり、再び隔離審査を受けることになった。隔離を解除され審査を受けている間、私は中編小説「犯人李銅鐘の物語」を書いた。『収穫』誌が1980年第1期に発表したことを感謝する。この後私は中岳高山南麓の登封県に下放され、三年間働いた、続けて二十編余りの中、短編小説を発表した。
1982年中国作家協会に加入し、1983年には河南省の文学連盟で著作に従事する。現在は中国作家協会の理事と中国作家協会河南文会の副主席を務める。 |