張彭春

Zhāng Péngchūn
張彭春
ちょう・ほうしゅん

(1892-1957)

張彭春伝略

 張彭春、字は仲述、天津の人。1892年4月22日生まれ、富裕な家庭の出身。父久庵は音楽を嗜み、「琵琶の張」と称したが、生産にいそしまず、家計は衰退した。

 光緒30(1904)年、張彭春は兄張伯苓(寿春)が天津に創設した敬業中学堂(後、私立第一中学堂と改名、「南開学校」の前身である)に第一期生として入学、同級に梅貽琦らがいた。1908年夏、南開中学を卒業、同年保定高等学堂に入学、2年で修了。

 1910年、18歳にして、游美学務処(清華学堂の前身)第二回義和団賠償金米国留学試験に第10位で合格、同期の合格者に胡適、銭崇樹、竺可楨、趙元任、胡明復らがいた。米国では、クラーク大学に入学。1913年文学士の学位を取得。コロンビア大学に移り、文学とくに欧米現代演劇の研究を好んだ。1915年コロンビア大学大学院修了、文学修士及び教育学修士の学位を取得。

 1916年夏帰国、南開学校専門部主任となる。8月、推薦を受け、南開新劇団初代副団長を務める。10月、南開新劇団は張彭春が在米時に創作した『醒』と張彭春の監督になる『一念の差』を上演した。その後の20年間に、張彭春は兄張伯苓を助けて、南開学校の校務を取り仕切ると同時に、演劇の名作を次々に翻訳、創作し、自ら監督をつとめ、教師と学生による上演を心血を注いでプロデュースした。上演されたそれぞれの劇作品は素晴らしい興行成績を挙げた。イプセンの『人形の家』『国民の敵』『争強(覇権争い)』『守銭奴』(モリエール)など、いずれも好評を博した。とりわけ張彭春が自ら脚色・監督を行った『新村正』は北京・天津両都市に大きな影響を与えた。南開新劇団は著しい成績をもって内外に名を馳せた。南開新劇団のメンバー周恩来、万家宝(曹禺)などはいずれも張彭春の学生である。

 1917年8月、南開中学校校長張伯苓は渡米、コロンビア大学で教育を研究し、翌年冬帰国した。この間、校長の職務は張彭春が代行した。1919年、張彭春は二度目の渡米を行ない、コロンビア大学で学識を深め、中国教育委員会秘書、ワシントン会議天津代表などを務めた。その後コロンビア大学で博士の学位を取得。1923年から1926年まで、国立清華大学教務長を務める。その間、張彭春は同大学の学制、教育方針、計画などの諸点に関して、具体的な決定を行った。「清華大学は指導者的人材を育てる実験学校たることを希望する」、「清華大學の教育は学力、個人研究及び中国の実際的な状況と必要に対応する能力の創造を特に奨励すべきである」と述べている。1926年から1929年、張彭春は南開中学部主任と南開大学教授を兼任した。

 1930年から1935年の間、梅蘭芳が米国とソ連に公演に出かけ、張彭春は前後二度にわたって梅蘭芳劇団の演目総監督および随行顧問を務め、中国の演劇の伝統や技巧を理解しない米国やソ連の観衆に梅蘭芳の劇を解説、紹介した。国外の観衆の需要を考慮し、「戯曲台本を集中精錬させ、純説明的な場面を減らし、大道具をなくし、舞台を浄化し、立ち回りのための立ち回りはやってはならない」といち早く提案し、梅蘭芳に受け入れられた。そういった改革措置によって、梅蘭芳の海外公演は成功を収めた。梅蘭芳は張彭春を評価して、「話劇に関わる友人で、本当に京劇を理解する者は多くないが、P.C.張は京劇の大玄人だ」と言っている。

 1936年5月、張彭春は黄佐臨の紹介でロンドン戯劇学館およびオールド・ヴィック・シアターに赴き、「京劇の芸術と技巧」という学術報告を行なった。生き生きと理論化して、かつ西洋の演劇と関連づけて行われたので、英国演劇界の有名人、ローレンス・オリビエやジョン・ギールグッドの熱烈な反響を得た。

1937年抗戦が始まると、南開大学は、日本軍の爆撃と占領を受けた。張彭春は変装して夜乗船して天津を離れ、威海衛を経て南京に移動、政府の委任を受け、英米に赴いて中国の抗戦を宣伝し、国外の支援を勝ち取った。1938年、西南聯合大学教授兼国民参政会第一期参政員に就任。翌年1月、再度抗戦宣伝のため出国、米国で「日本の侵略に参加しない委員会」を組織し、米国議会に、「対日経済制裁案」を通過させるよう遊説した。1940年5月、註トルコ公使に就任、10月に赴任した。1942年5月チリ大使に転任、7月に赴任。1944年10月、チリ大使の職を辞し、母校コロンビア大学の教職に就く。

1946年1月、ロンドンへ、国連創設会議の中国代表に就任。会議後、駐国連経済社会理事会常任代表兼人権委員会副会長に就任、国連「人権宣言」の起草に参与した。1947年3月、国連報道自由会議中国主席代表に就任。1952年3月、病気療養のため辞職。1957年7月19日、心臓発作により、米国ニュージャージー州ナットリーにて死去。享年65歳。

(黄殿祺「張彭春傳略」『話劇在庫北方奠基人之一 張彭春』中国戯劇出版社 1995.4)

著書・単行本

『話劇在北方奠基人之一 張彭春』中国戯劇出版社 1995.4

张彭春一家在美国
作成:青野繁治

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