張我軍

Zhāng Wǒjūn
張我軍
ちょう・がぐん

(1902.10.7-1955.11.3)

作家紹介

台北出身、本貫は福建省漳州府南靖県。本名は張清榮。筆名は一郎、剣華、以齋、四光、大勝、廃兵、M.S.、老童生など。北京で学んでいた1924年、日本統治時代の台湾において旧文学論争を引き起こす。終始、方言および白話文学に反対し、「我們日常所用的話,十分差不多佔九分沒有相當的文字。那是因為我們的話是土話,是沒有文字的下級話,是大多數佔了不合理的話啦。所以沒有文學的價值,已是無可疑的了。(我々が日常で用いる話は、十分の九ぐらいは文字に当たらないものである。それは、我々の話とは土語であり、文字のない下品な話であり、大半が不合理な話であるからだ。よって、文学の価値はなく、すでに疑う余地もない。)」と指摘した。張光正、張光直、張光誠、張光撲の4人の子供がいる。長男の張光正は中国共産革命に参加し台湾には戻っておらず、その他3人の子は台湾で学業を終えた後、米国に留学し、次男の張光直は教授・世界的考古学者となり、かつては中央研究院副院長を歴任し、米国イェール大学・米国ハーバード大学で教卓に立った。四男の張光撲は米国シカゴ大学医学部で教授を歴任し、退職後は米国に残った。

張我軍が最も台湾文学に影響を与えたこととして、1924年4月および11月の《台湾民報》において〈致台灣青年的一封信〉と〈糟糕的台灣文學界〉を発表し、台湾旧文学と旧詩人の文章への批判を通じて日本統治期の台湾に新旧文学論争を引き起こしたことが挙げられる。

張我軍が台湾伝統文学を強く批判して書いた第一作目の〈致台灣青年的一封信〉は1924年4月21日《台灣民報》第2巻7号に掲載され,当時の台湾文学には病気が蔓延しているとこのように批判した:「諸君は役に立つ実用と社会の本を読まず、毎日それらとは全く違う詩を作ることのみぞ知り、韻を踏むことばかりにとらわれ奴隷となっており、あるいは古臭い先人が書いた文章八行をどう替えて発表するかばかり考えている。」張我軍は真正面から当時の流行と文学遊戯を攻撃し、「台湾の詩文など、かつてから正真正銘に文学的価値があると見られてこなかったものであり、また改革を望んでおらず、ただ積み上げられた糞の中で転がっているだけで、百年千年と転がっていようがただ臭う糞しか得られない」と述べた。これらの文字には嫌気が満ちあふれており、台湾伝統文学を全面否定した。この文が発表されると、すぐさま日本統治時代の新旧文学両陣営の真っ向からの対立を引き起こすこととなり、その後の新旧文学論争の火種となった。

作品

《走私》(1937年)
《台灣之茶》(多人合撰)(1949年)

作品集

『台湾作家選集 楊雲萍・張我軍・蔡秋桐合集』前衛出版社

著書

《中國國語文作法》(1926年)
《日本語法十二講》(1932年)
《(日漢對譯詳解)高級日文自修叢書》(1934年)
《現代日本語法大全:分析篇》(1934年)
《(日語基礎讀本)自修教授參考書》(1935年)
《(對譯詳注)日本童話集》(上、下冊)(1942年)
《台灣茶業》(1948年)

翻訳書

有島武郎《生活與文學》(1929年)
丘淺次郎《煩悶與自由》(1929年)
宮島新三郎《現代日本文學評論》(1930年)
千葉亀雄《現代世界文學大綱》(1930年)
葉山嘉樹《賣淫婦》(1930年)
佐々木月樵〈龍樹的教學〉(發表在中國的佛學雜誌《海潮音》,1930年12月號。)
西村真次《人類學泛論》(胡先驌/校對)(1931年)
夏目漱石《文學論》(1931年)
正木不如丘《人性醫學》(1932年)
家永三郎《日本思想史上否定之論理的發達》(1933年)
今中次麿《法西斯主義運動論》(1933年)
山川均など《資本主義社會的解剖》(1933年)
飯田茂三郎《中國人口問題研究》(與洪炎秋合譯)(1934年)
野尻抱影、青木正兒《詩經的星 從西湖三塔說到雷峰塔》(1938年)
武者小路実篤《黎明》(1944年)

張我軍に関する論文

劉海燕:看過された張我軍の「八丁大人的手記」
劉海燕:台湾新文学における中国新文学の代弁者・張我軍―『台湾民報』時期の文学活動を中心に―
鄒双双:日本占領下の北京における文化人―銭稲孫と周作人を中心に―

代表作品紹介《乱都之恋》

詩集《乱都之恋》において、張我軍は作者自身が北京に留学をした時起こった出来事の物語を吟じている。

まだ到着してまもない頃、張我軍は後孫公園の泉郡会館に寄寓しており、廠甸の高等師範所の進学補習クラスに通っていた。当時の補習クラスの夜間部は男女共学であり、そこには二人「クラスの華」がいた。一人は羅文淑という17歳の少女で、北京尚義女子師範学校から卒業できないまま在学しており、学力を上げるために補習クラスに通っていた。もう一人の華はエリート少年であった張我軍であり、そしてお互いは次第に惹かれ合ったのであった。我軍の初めての詩は、本人には知られないように文淑に宛てて書いた。

しかし、その時代ではこういった習慣も少しずつ始まりかけていたとはいえ、中国はやはり保守的で封建的な社会であった。男女恋愛において、他人に知られるのを避けなければならないのみならず、さらに家長には隠しごまかさなければいけなかったため、羅家には二人の関係は一切伝えなかった。その後、張我軍の手元のお金もなくなり、北京での生活も苦しくなると一時的に台北に戻り、日本統治下の独占中国語新聞社《台湾民报》で編集の仕事をした。そこで、張我軍は続けて羅文淑にいくつもの手紙を送ったが、しかし何の消息も得られず、返信もなかったのであった。なんと羅家側の家長が二人の関係を事前に察ししていたため、張我軍のラブレターをすべて没収し、文殊も張我軍の住所も知ることもできずにいた。そのため、男女の間には距離が生まれ、互いをただ思う日々が過ぎていった。

この最中、高等師範四年生の荘庄という者は長年羅文淑に敬慕していた。そして張我軍が台湾から長くも帰って来てないのを見、羅文淑に結婚を申し出たのであった。そこで張我軍の悪口を数多く言う以外にも自身が大富豪商人の弟であることを伝え、羅文淑の家族の面倒も見られると言った。文淑の母は荘庄を一見するところ、学校もまもなく卒業する上、家庭の暮らし向きも良く、そのため結婚を認めたのであった。

文淑の心の中には我軍がいたが、封建的な礼儀と道徳に縛られ、反対の意見も表に出せず、ただただ気が落ち着かない状態でいた。この瀬戸際で、我軍の親友がこの話を耳にし、すぐに我軍に電報を送ったのであった。この電報を受け取ると、北京に大急ぎで戻り、羅文淑に一緒に家出することをお願いしたのであった。そして、二人は家を去ることにし、とも台湾に渡っては自分自身の幸福を手に入れることができたのであった。以後、羅文淑は心から愛する張我軍のために名前を羅心香に改めたのであった。

作成:北原 司

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