張欣

Zhāng Xīn
張欣
ちょう・きん

(1954-  )

張欣小伝:

 祖籍は江蘇省。1954年北京に生まれる。1969年解放軍入隊。衛生員、看護婦、文工団創作員などの仕事に従事。1984年転職。1990年北京大学作家班を卒業し、現在は広州市文芸創作研究所創作員。
 1978年から小説を発表しはじめる。『不要問我従ロ那里来』『梧桐梧桐』などの作品集があり、受賞作も多い。中国作家協会会員。

(『真純依旧』紅罌粟叢書 河北教育出版社 1995.4)

私は誰?

 7月14日生まれ、江蘇の人。16年間服役、その後文学に転進。
 両親ともに軍人だった。学歴は高くないが、善良で、何事にも公明正大だった。私は両親から、まじめと率直を学んだ。両親の子供たちへの愛情は、表に出さないが、援助の力は惜しまなかった。
 私が最終的に作家になったのは偶然ではない。小学生では、算数は並の学力だったが、3年生の作文は、クラスでいつも先生に朗読される模範文だった。そのころから、一貫して「文学者」になりたいと思っていた。しかし誰もが知っている原因(訳注:文化大革命)のため、小学校までしか行けなかった。30数歳になって北京大学の作家班で学んだ理由の一つは補習、もう一つは夢の実現、ということだ。
 母は北京出身で、外祖父は教師をしていたが、出身は都市貧民みたいなものだった。しかし母は楽観的な性格で、おしゃべりは気が利いていて、頭の回転が速かった。後者は弟が引き継いだが、私は前二つ、つまり楽天性とおしゃべりを受け継いだ。母は色事とケチが嫌いだったが、やや倹約癖があった。父方の祖父母は田舎の人で、純朴でおとなしい性格だった。農民的なずるさは持ち合わせていなかった。父がいつもの期日にお金を仕送りしなくても、決して手紙で催促したり、山のように苦労ごとを挙げて、息子が親不孝だと暗示したりはしなかった。そのような家庭に育ったので、私は捻じ曲がった性格とならず、結果として理想主義的要素の強い作品ばかり書くようになった。
 とは言っても私は子供時代はみにくいアヒルの子で、両親が普通の幹部であり、私自身も頑張らなかった(まじめに勉強しなかった)。当然溺愛されることはなかった。小学校のとき、クラスの女の子で可愛くて、勉強もでき、先生の言うこともよくきき、父親が軍区の司令員だったため、彼女のことが、羨ましくてならなかった。私は学校で先生を煩わせ、家では両親を煩わせ、同級生では少年先鋒隊に入ったのが一番最後だった。
 そのころは家庭の生活もやや楽になっていたが、母が薬剤師から医師に代わろうと長春医科学院に通っていたのを覚えている。それで祖父母が引っ越してきて同居し、毎食おかずが一品しかないこともよくあった。ある時は糧票をもらいに行って、一枚風に飛ばされてしまったが、祖母が私をつれて道路に沿って探しに行ってくれた。コートは着古しても、まだ着続け、裾がほどけたら、つぎをあてて着た。大人になって、父方母方両方の老人の面倒をみないといけないのが、当時負担が重いと言っていた意味がわかった。
 15歳にもならないうちに、軍に入った。最初の8年間は解放軍の病院で、保健師や看護師をした。苦労をしたと言っていいだろう。後半の8年は、文工団で創作員をした。体力仕事は軽減されたが、精神的プレッシャーが日増しにつのった転職してからは、新聞社や雑誌社で事務職をしたこともある。それで磨かれて、平民意識や人の痛みに寄り添える人間になれた。大して金持ちにも偉くもなったことがないので、何事も自分中心ではいけないこと、人生のテンションを低めに調整することを理解している。
 私の前期作品はたいてい軍隊病院と文工団の生活を描いている。後期の作品は、次第に都市に目を向けた。軍隊を離れ、地方でしばらく生活したので、視野が自然に広くなり、新しい友達もできたし、新しいこともいろいろ理解するようになった。私は感情過多の性格なので、女性の視点から、社会生活を見るのが得意で、そういう把握の仕方が気楽である。
 結婚相手は商売人で、仲のいい友人にも商業界の人物がいる。彼らのエリアの話を聞くと、新鮮に感じられる。文学の外にとても大きな世界があって、そこに各種各様の人々が生活し、そこで発生する本当の出来事は文学や小説より生き生きしている。こういった人々はクンデラは知らないが、瓊瑤は知っていて、災害地区に巨額を寄付するけれども、道端の乞食にはビタ一文施さない。彼らは知恵をしぼってお金を稼ぎ、夜な夜な楽しむ。(金はかかるが、その為に働いているのだ。)善でも悪でもない人々も多く、リアリティをもって生きている。要するに、文学のエリア内で書き、エリア内のものを読み、エリア内で互いに批評鑑賞しあう文学には嫌気がさしている。文学は私の心の中では、一定の民衆性がなければならない。自分たちのエリアの中だけで、読み、批評しあうなら、学術論文とどう違うのか。だから、私は自分の書くものは、読みやすく、真実を述べることを要求し、虚偽や虚飾や低級な趣味は求めない。旅行者が乗車前に買って読み、下車のときに捨てられ、二度と手にとられることはないとしても、その人の車上での空白を埋めることが出来さえすれば、少なくとも文章としての使命の半分、つまり人生を楽しませることを達成したわけで、私は気にしない。
 幸いにも私は時折ファンに出会うことがあり、誉め言葉をもらったり、熱い思いにあふれる手紙をもらったりする。残念ながらやや若い人が多すぎ、18、9歳の若者ばかりだったのが残念である。けれども努力するしかない。そうすれば大人の読者が私を気に入ってくれるかも知れない。
 1978年に作品を発表して今日まで、歴史は経てきたが業績がない。唯一自慢できるのは、確かに書いてきたということだ。初期の作品は幼稚で笑われそうで言うのも気が引ける。この作品集の作品は、きっと読者を失望させるだろう。これを収めることは自分の執筆歷を提示することだ。この長い階段を上ってきて、重要な先生や友人もいたが、最終的には「個人」で修養しなければならない。自分で悟りに向かってがんばらなければ、転石成金の心の底からの言葉も、風に吹かれれば、とんで行ってしまい、跡形ものこらない。自分が暗闇で模索していたその時、大先生に導いてもらい、質問をしたり、教えを乞うことを望んだが、そんな人はなく、ゆっくり自省すれば、同じ過ちを次にはしない、というところまではきた。私の人生の導師は、自省であると信じる。私のできることは、自省のなかで、一字一句書いて行くことだけだ。たとえ、ブームにはならなくても、自分では力を注いだ、ということだ。
 私は使命感の強い作家ではない。私が書くのは、生活のため、と好きだからである。後者はダンスや刺繍が好きな女の人と同じように、精巧につくりあげることはそれほど難しくない。お茶を一杯いれて、本を手に取り、飲み食いしながら読む。ときには大笑いし、ときには感動する。他の人たちも同じようにして、読んでいるのが私の本で、思わず笑いだす、そういうのって、いいんじゃない?

(『張欣文集 世事素描』群衆出版社 1996)

作品集・単行本

『真純依旧』紅罌粟叢書 河北教育出版社 1995.4
『歳月無敵』跨世紀文叢 長江文藝出版社 1996.3
『張欣文集 世事素描』群衆出版社 1996.10
『張欣文集 燃焼歳月』群衆出版社 1996.10
『張欣文集 商戦情戦』群衆出版社 1996.10
『張欣文集 驚途末路』群衆出版社 1996.10
『浮世縁』 中篇小説集 華夏出版社 都市女性三重奏 2000.1/22.00元

作成:青野繁治

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