張深切

張深切
Zhāng Shēnqiè
ちょう・しんせつ

(1904~1965)

小伝

 張深切、男。楚女、列良と号す。筆名は紅草、之乎、者也、雲羽など。貫籍は台湾南投。1904年(明治37年)8月19日生まれ、1965年11月8日辞世、享年62歳。
 広州中山大学法科政治系修了。1927年郭徳欽、張月澄、林文騰らと「広州台湾革命青年団」を結成し、宣伝部部長を担当する。1932年上海『江南正報』で時評および副刊の主編を担当、1934年には『台中新報』(1935年から『東亜新報』と改名)記者および編集者をつとめる。1938年北京藝術専科学校、新民学院にて教職を担当するとともに、台人旅平同郷会会長に就任、中国文化振興会を準備。1946年台湾に戻り、台中師範学校教務主任に就任。「二・二八事件」後、政治から遠ざかり、哲学研究及び劇本創作に潜心した。1957年友人と「藝林影業公司」を組織し、講師及び編劇を担当した。同年、映画『邱罔舎』が故事類「第一回金馬奨特別奨を受賞。
 「台湾の精神文化的基礎を確保する」ため、1934年に頼明弘と、本島作家及び文藝社団を集合させ、「台湾文藝聯盟」を結成し、機関紙『台湾文藝』を発行したが、これは1930年代台湾新文学運動における重要な刊行物の一つである。後に聯盟が分裂したことと日本政府の監視を避けるため、北京に移住し、『中国文藝』の主編および発行人をつとめ、これによって中国文化遺産の保護を期した。しかし台湾人の身分と立場の矛盾はその中にも具現されていた。
 張深切の創作は、小説、散文、劇本類を主としている。小説作品では、日本統治時期に発表した「鴨母」が代表作で、「心理描写」を放棄し、「情景を描く必要なし」という方式の創作で、内容は台湾の豪紳が日本人と結託して貧しいアヒル農家を圧迫する姿を描いており、日本統治時期におけるブルジョアジーと植民者の結合を批判している。「二・二八事件」のあいだは、南投の中寮山区に逃亡、隠れすみ、「私と私の思想」や『広東で発動した台湾革命運動史略、獄中記付き』を完成させ、初期の思想形成と台湾人が広州で従事した革命運動の始末および獄中生活のあれこれを叙述した。回憶録「里程標」(別名黒い太陽)は、その前半生で、台湾、日本、中国を流浪した人生の歴程を記録しているが、時代の投影でもあり、。植民統治下における台湾知識人の抵抗と挫折、思想上の矛盾と困惑を反映している。
 張深切の演劇に対する熱愛は終生変わることがなかった。日本統治時代には何集璧らと「台湾演劇研究会」を創設している。戦後は『傍観雑誌』に映画シナリオ『遍地紅』を発表し、「霧社事件」の始末を描いた。当時の台湾語映画の悲惨な雰囲気と粗製乱造の状況を一掃するために、張深切は「藝林影業公司」を準備し、『邱罔舎』という映画を製作したが、ユーモアの趣向を方法として用い、楽しみながら喩えで悟らせることを信念に、「文藝大衆化は演劇から」という目的を実践した。陳芳明は「張深切の本土精神に対する追求は、知識豊富な政治運動に始まり、聯合戦線式の文学運動が続き、最終的に、大衆式の演劇運動へと投入された。このような跡をたどれる思想の発展は、植民地知識人が自主的空間を喪失して後も、ひきつづき具体的な行動で、自己の精神を守ろうとする一種の努力を典型的に反映している」と見なしている。

『張深切 台湾現当代作家研究資料彙編』

 作品
 
研究資料

『張深切 台湾現当代作家研究資料彙編』国立台湾文学館 2014.12

 

作成:青野繁治

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