張若谷

Zhāng Ruògǔ
張若谷
ちょう・じゃくこく

(1905- 1960)

張若谷小伝

 湖南醴溪の人。上海南滙県閣浦鎮のキリスト教信者の家庭に生まれる。幼少よりキリスト教の薫陶をうける。天主堂街の類思小学に学び、卒業後は徐滙公学に入学し国学を学ぶ。1940年6月21日から7月1日にかけて、『奮報』に王定九による「モダン記者張若谷」の一文が掲載され、比較的詳しく張若谷の経歴を紹介している。

 張若谷は幼少より聡明で、文芸の才に恵まれた。早くも徐滙公学時代の1923年、新聞や雑誌に投稿し、同年12月発行の『聖教』誌に処女作が掲載された。そのときは盧懐斎主人の筆名を用い、中国初期の飛行家朱賓侯が同校を訪問し、航空知識を紹介する講演を行なった記事を書いた。

 父親は子供の将来に期待し、法律家か外交官になることを希望した。そこで1924年に震旦大学に入学したときは、法律を専攻させた。しかし小説を読んだり、ハーモニカを吹き、歌を歌ったり、写真をとったり、切手を収集するのを好んだ若谷自身は、自分が芸術家の方に向いているとわかっていた。彼は課外の時間は図書館にひたり、西洋文学の名著をひもとき、倦むことなく研究し、独学で理解でき、得たものを文章化して、新聞雑誌に投稿した。1924年にはその文章は活字となっている。彼はたまたま『申報』で、上海南部租界で刺花党が逮捕されたというニュースを読み、「刺花党と労働界」という文章を書いて、タブロイド判半月刊新聞『亥報』に投稿したところ、1924年9月3日の「時評」欄に掲載された。彼は更に、この労働界工友によって創刊された新聞に談話と三篇の小説を発表している。

 1925年五三〇運動が起きると、運動のなかで惨殺された中国同胞に共感し、学生会を組織して声援を送った。それは学校当局の不満を招き、自動的に退学となった。彼自身も法律と学校に嫌気がさし、大学生生活にピリオドを打ったのだった。

 学校を離れると、張若谷はフランスに留学したいと考え、中仏基金会の官費留学生に応募した。不合格になると、意気消沈し、人にも会いたくない状況が続く。この年、父親が病死したが、葬儀のあと、彼自身も大病に倒れる。回復はしたが、家の切り盛りする責任が自分の肩にのしかかっているのを意識し、奮い立って仕事を探した。一人のフランス人神父の紹介をへて、弁護士穆安素の屋敷に書記として住み込むことになった。穆安素はフランスから上海にやってきた著名な法律家で、業務が忙しく、かかわっている案件が多数あった。張若谷は国学の造詣が深く、フランス語にも精通していたので、文書作成やタイピングも手際がよかった。穆弁護士は彼を重用し、一年の見習いののち、補佐役に昇進した。月給は160元であった。豊かな収入を得て、張は生活を改善し、フランス文芸の翻訳グループに加入。スーツにサングラス、革靴を履き、パリの香水を香らせ、顔に夏士蓮花を塗り、ジョッフル路でカフェをすすり、呂班路でサロンを開く。それは流行のモダンで異国情緒に満ちた生活であった。

 法律の仕事の余暇に、彼は著作も続けた。初めて本名の張若谷で発表した文章は、1925年9月9日に『申報』「本埠増刊」に発表した「国内音楽刊行物レビュー」というタイトルであった。これはもともと『申報』「遊芸叢刊」に投稿したものであるが、編集担当の朱応鵬がこの文章を気に入ったにも関わらず、欄の主旨に合わないと考えて、「本埠増刊」に推薦したのだった。その後、朱は張に何度も手紙で原稿を依頼し、手紙のやりとりが縁となり、親友となった。1925年から1927年にかけて、張若谷の文章は新聞の端々に見られるようになり、『申報』副刊「芸術界」の執筆人の大立者となった。それと同時に彼の文章は、『時事新報』副刊「鑑賞週刊」や「文学週報」にも見られるようになった。

 張若谷は気位がたかく、非凡な抱負をもっていて、かつて友人には、文学は小手先の技術で見込みはない、文学は興がのった結果か、生活に迫られて為すにすぎない、と語っていた。ところが舌の根も乾かぬうちに、彼は新聞業界に入り、20年近いジャーナリストとしての生涯を始めたのだった。

 1941年の『中美週刊』の2巻29期と31期に張若谷が執筆した「途中で家を出た新聞記者」と「初めて従軍記者となる」の二文が掲載されており、彼が報道界に入った経緯とそのジャーナリストとしての活動が披露されている。

 彼が正式に新聞記者となったのは、1927年3月、国民革命軍による上海光復ののちのことで、作家田漢の紹介により、ジャーナリスト王新命に従って南京にいたり、『国民革命日報』の外勤記者となった。赴任後の任務は、従軍記者として前線の戦況を報道することで、最初の仕事は下関駅での軍用車による爆破事件を報道するというものだった。任務を受けると彼は直ちに総司令部の三角旗を挿した車に乗り、怒号や命令の声のなか、まっしぐらに事件の発生地点にかけつけた。炎は燃え盛り、弾丸が飛び交っていた。彼は一人芝居の役者のように、あちこち駆け回って、危険を冒し、被害車両の番号や損失額と被害の実態を調べ上げ、何度も警戒区域を出入りして、駅長や軍警の長官を訪ね、病院に行って死傷者の数と氏名を調査した。新聞社に戻ったのは真夜中過ぎだったが、急いで原稿を書いた。翌日、南京城内は『国民革命日報』が街中を飛び交い、平素は1000部ほどの売れ行きの新聞が、この日は3000部を突破した。第一砲を鳴り響かせたあと、それに続く二か月間の戦地ニュースを、張は水を得た魚のごとく自在に執筆し続けた。

 小説『孽海花』の作者曽孟朴はフランス文学の専門家で、江蘇財政庁長を退任したあと、上海で鳴りをひそめていたが、1929年に真善美書店を創設し、『真善美』雑誌を創刊した。張若谷は曽を敬愛しており、よく投稿していた。曽はその原稿をたびたび採用したのみならず、張を『真善美』「女性作家特集」の編集者に招いたのだった。

 1932年1月に1・28上海事変が勃発すると、上海『時報』は戦時の報道が一世を風靡した。著名なジャーナリスト張竹平は商機をつかみ、曽虚白を招いて、上海で『大晩報』を創刊した。曽虚白は曽孟朴の息子である。スタッフ募集に際し、曽孟朴は張若谷を外勤編集者に推薦した。『大晩報』の正式の創刊は、1932年3月1日で、上海事変からわずか1か月余りのことであった。

 『大晩報』創刊時はまだ戦火のなかであったが、『国民革命日報』戦地記者の経験のあった張若谷は再び外勤記者となって大ナタを振るった。彼は換骨奪胎、それまでの時流モダンの風格をガラリと変え、乗馬ズボンの足に皮ひもを巻き、撮影機材を担いで、閘北、江湾、呉淞、宝山、大場、楊行、真茹の前線を駆けまわり、軍についてまわりインタビューし、スケッチ報道を行なって、戦況を語りつくし、それに読者は目を見開いた。当時の前線記者には、黄埔軍校三期生の黄震遐がいる。黄も長く戦争を経験し、戦いを終えると執筆活動に従事しており、張とはそれぞれの手柄を認め合う仲であった。二人は暗黙の了解で、ともに戦火をくぐりぬけ、雨風もなんのその、顔は真っ黒に日焼けし、髭もそらずにいたので、張飛が二人いるような様であった。

 上海事変はひと月と1日で終了し、張若谷と黄震遐は功績をあげ名をなしたことで、『大晩報』社長の張竹平や主筆曽虚白の称賛を得た。張若谷は内勤となり、第一面の通信ダイジェストの責任をもつ、新聞社副主筆のさまであった。同社副刊「火炬」が創刊されると、その編集も兼任した。二か月後には新文芸作家崔万秋を正式に編集担当に招き編集を担当してもらった。

 張若谷は記者、編集人を勤めている間に、数十名に及ぶ各界の著名人を訪問取材し、そのインタビューは個性は、「梅蘭芳との35分間」、「バーナードショーとすごした50分間」、「一時間胡文虎と会見」などの文章や表題からその一端を垣間見ることができる。ほどなく彼はこれら著名人インタビューを『当代名人特写』にまとめて出版した。これによって、その名声はとどろき、「南方の張」と署名することで、北方の張(張恨水)と並び立つほどになった。

 上海事変後、黄震遐はそれを題材に長篇小説『大上海的毀滅』を執筆、その売れ行きは驚くほどで、大ブームとなった。張若谷もそれに創作意欲を刺激され、以前の文人のゴシップを題材にした長篇小説『婆漢迷』を執筆し、『大晩報』に連載したが、それによって彼は事件に巻き込まれることになる。

 『真善美』「女性作家特集」を編集したとき、張若谷は原稿集めに奔走し、老作家と面識を得、新人女性を発掘した。張愛玲、陸小曼、廬隠、蘇雪林、白薇など多くの女性作家に原稿を依頼したほか、魯迅、郁達夫のような大作家と接する機会を得た。そこでこれらの作家のエピソードを基礎に「新儒林外史」『婆漢迷』を執筆、京派や海派の文人のロマンスを描いた。しかしそれらの文章の一部は、世間の噂に類するもので、根拠に欠けるものであり、羅不心という人物で魯迅を当てこすり、郭得富で郁達夫をあてこするところまであった。魯迅は一読の後、張若谷が「文芸の先達を誹謗」しているとし、文章を書いて、張若谷や梁実秋、楊邨人を、とりあげるに値しない三文人とした。茅盾、巴金、張資平、張天翼、鄭振鐸、施蟄存ら著名文学者は、『文学』や『現代』に文章を発表して、張若谷を批判した。張はまたたくまに「小商河的楊再興」となり、ハリネズミのようにハリをたてて、オロオロするばかりとなった。

 1933年4月13日の『福爾摩斯』掲載の「新文芸上の礼拝五派の反抗」によれば、天馬書店は、文学者の文集を刊行するため、魯迅、洪深、茅盾、郁達夫など20名の作家を致美楼の宴に招いた。席上、茅盾が、張若谷、章衣萍、曽今可らを「礼拝五派」と称することにしよう、と提案した。「なんじらは解放の美名に借りて、剽窃に従事し、毎月なすところは、肉にあらざれば愛、更に“マージャンでもやって”、“ちくしょうめ”といった無聊の語句を用い、その形式と内容は礼拝六派(鴛鴦蝴蝶派)に似てはいるが、及びもつかぬこともあり、故に礼拝五派と称するのだ」と。魯迅たちも大笑いして賛成し、張若谷はそれいらい「礼拝五派」の呼称を得ることになった。

 この突然の荒波を張若谷は受けとめることができるだけで、反撃するすべはなく、三十六計逃げるに如かずであった。彼は友人を説得し、未来の雄大な計画を描いて見せ、一週間で一万余元を借りることができた。1935年9月11日、張はイタリア客船コンテ・ベルデ号に乗船し、上海からベルギーへと造詣を深める旅に出たのである。

 張若谷はベルギーのルーべン・カトリック大学に行き、古代ギリシャ文学とローマ法典を同時に専攻した。単身海外にあって、高い生活費に直面し、張若谷は衣食を節約し、細かい計算をした。最初の半年は、アパートを借り、自炊生活を送り、ガスコンロで米を炊き、コンロでパンを焼いた。生活は異常に苦しかった。留学期間にも張は記者の身分を忘れることなく、勉強の余暇に、長篇の通信文『西遊記』を執筆した。またベルギーの雑誌を参考にして、奇談を選んで翻訳し、上はファシスト首ムッソリーニの鉄の独裁と党政軍の秘密から、下は社会の細かな出来事など、何でも彼の題材となった。文章は中国に送られると、『大晩報』『時事新報』『現代』『良友』『文学』などの紙誌に掲載された。発表後、張は良友公司と連絡をとり、それらをまととめ『西遊記』として出版した。送られてきた原稿料は留学の学資と食費・旅費の助けとなった。

 張若谷よりまえに、ジャーナリストの戈公振や顧執中が海外派遣されていた。顧執中はフランスに留学し、駐英外交官顧維鈞の世話になり、駐フランス大使館の二等書記官になった。張若谷もベルギーに来てから、同じ処方箋で、駐ベルギー公使王景岐の援助を得た。張はそれまで王とはまったく無縁の人であったが、国内の新聞社に通信文を書く役目も兼任していたので、必要なときは公使館に情報を調べに行き、王周旋に気にいられていた。王も苦学生出身で、張の向学心と貧しい状況に同情してくれ、結果張を公使館の二等書記官にしてくれた。張は官職を得て、公使館に移り住み、食費や住居の心配がなくなり、多くの費用が節約できた。張はベルギー滞在中の2年間に、王公使に随行して、ジュネーブ国連大会や国際禁煙大会に出席した。会期中、張は水を得た魚の如く、再びジャーナリストの風采を発揮し、外交の現場で、話題の中心をつかみ、細部を重視しつつ、会議の日程や議事の要約を国内に発信し、会場のこまごまとしたことや人物紹介を通信にまとめて、『大晩報』や『時事新報』に掲載した。それは鮮やかな手際で、人々は称賛した。

 1937年初め、経費がかさみ、学業の停止を余儀なくされた。卒業証書は得られなかったが、今回の海外留学は張にとって、見識と学問を深めるものとなった。

 帰国後、上海に戻ってまもなく、張若谷は黄伯恵の『時報』と<張公弢の『朝報』で、外勤記者を務めたが、いずれも重用されなかったため、離職した。1938年春、張若谷はフランス籍神父の紹介で、カトリックに帰依し、敬虔なカトリック教徒となった。礼拝日になると、張は徐家滙教会に赴きミサを行なった。しばらくして、張若谷は当地に寓居していた馬相伯と知り合いになる。馬はフランス留学の先達で、カトリック教徒でもあった。そのことで二人はより親しくなった。張はしばしば馬のもとに通い、弟子の礼を執った。馬の同意を得た張は、馬の経歴と資料をあつめ、編集整理を行なった。1939年、馬相伯は諒山で亡くなると、張若谷は『馬相伯先生年譜』を出版した。本の評判がまたたくまに広まり、ベストセラーとなって、初版3000冊は数か月で売り切れ、再販後も読者は衰えず、張若谷の名声はますます高まった。著作以外に、張は震旦大学付属中学部でフランス語の教員をつとめたほか、『中美日報』の招きをうけ、「集納」副刊編集の任にも当たった。

 第二次上海事変ののち、張若谷は再び戦地記者の身分で前線に現れた。上海の共同租界とフランス租界は中国の武装組織の保護のない「孤島」に変貌した。多くの新聞社は租界に転入し、外国人の身分と土地「孤島」の優勢を利用して、刊行出版を続けた。『中美日報』『大美晩報』『華美晩報』などの新聞は、積極的に抗日宣伝を行なった。その為、上海の日本当局は租界に圧力をかけ、租界当局もニュース審査を強めざるを得なかった。上海租界当局の過酷な審査制度のもとで、抗日各紙誌は「天窓を開く」方式で声なき抗議を示した。1940年8月13日、上海事変三周年記念日に、『中美日報』は初めて「天窓を開け」、第一面の見出しを除く全ての原稿が削除された。第二面の社説は、「偉大な記念日における平凡なコトバ」も、多くの個所が削除された。張若谷の編集した「集納」副刊も半分の誌面が空白となり、「駱駝行」の詩もタイトルだけになった。同紙は当日「小言」を発表し、「読者は本日本紙を開いて、空白が目につき、異様な感覚をもたれたと思う。そのわけを訳知りが詳述するまでもなく、みな心中では解っている」と述べた。

 1940年、日本の支持のもと、汪精衛政権が南京に誕生した。汪精衛は国民政府主席、行政院長の名義で、上海租界の83名の抗日愛国人士に対して、「逮捕令」を通達した。うち49名は抗日ジャーナリストで、罪状には「上海租界に潜伏し、第三国人の名義を借りて、新聞社を経営し、終日、デマと扇動を行ない、平和を破壊…」と書かれていた。中でも『中美日報』の指名手配者が最も多く、上は社長の呉任滄、総経理絡美中から、下は編集人の張若谷、汪錦荃まで全部で9名であった。それと前後して、大光通訊社社長邵虚白、『大美晩報』経理張似旭、国際新聞編集人程振章、『申報』記者金華亭、『華美晩報』社長朱作同など愛国人士が暗殺されている。

 張若谷はブラックリストに載っていたばかりでなく、幾度もテロに遭遇した。もしものことを防ぐため、震旦中学の教職を辞し、新聞社内に居を移し、慎重に行動した。更に公共租界の監獄に臨時の自衛用ピストル一丁の貸与を申請した。1941年9月24日午後1時頃、張は下宿先に戻り食事をとってから新聞社にもどる途中、ラファイエット路まできたとき、金神父路口の21路線のバス停で、バス待ちをしているときに、数名の日本憲兵とフランス租界の警備員によって逮捕され、下宿先も捜索されたが、何も得られなかった。当時の『中央日報』『大公報』『申報』『新聞報』『社会日報』『時報』『時事新報』『東方日報』『力報』『神州日報』十数のメディアがこの事件を報じている。

 張若谷は最初薛華立路の中央拘置所に連行され、数時間の尋問ののち、午後5時に虹口の日本憲兵司令部に移送された。張の家族は一報を受け、大変驚いて、多方面からの救出の手段を講じ、イタリア籍の法律家徳尼博士に人権保護を委託した。その後『中美日報』の米国籍法律顧問を通じてフランス領事館と交渉し、29日にフランス租界拘置所への留置となった。30日午後2時、張は再び汪精衛政権に接収された第二法院に送られた。張が起訴された要因は、ピストルが一丁押収されたため、テロリストという疑いをかけられたからであった。法廷で張の妻が「張は結局何の罪を犯し、どのような法律に違反し、逮捕され裁判にかけられたというのか」と詰問したのに対し、裁判所側は何も答えず、いくつか尋問したのち、この案件は受理せず、と宣告し、拘置所の自由に任せることとなった。

 その後、『中美日報』の中国籍職員全体が連名で、フランス租界当局に書簡を送り、フランス大使コスムの公平なる裁きのもと、迅速に張若谷を釈放するよう請求した。本紙の中国とアメリカの責任者が、張のイタリア籍弁護士を伴い、フランス総領事館にフランス大使を訪ねたが、大使は所用で北平に出張中であったので、面会はかなわなかった。フランス副領事によれば、「張氏は罪もなく、租界の留置所に拘留する理由もない」とのことだったが、釈放についてははっきりした回答はなかった。とはいえ、フランス副領事の言葉もまだ耳に残るうちに、予想に反して、11日の午後、汪政府第二法院は再び張若谷を法廷に呼び出し、簡単な尋問ののち、日本人憲兵によって、日本憲兵司令部に連行された。日本当局は、この件は詳しい審査が行われていない、として対外的にはいかなるコメントも発表しなかった。

 1942年2月20日の『新聞学季刊』第二巻第二期の消息筋によると、「上海『中美日報』は20日より暫時停刊となる、その原因は不明」、『中美日報』の編集人張若谷が敵方に逮捕されたが、現在はフランス租界拘置所に戻された」とのことである。

 消息によれば、このとき張若谷は5か月近く拘留された。当時の新聞報道を調べてみると、その後数年間は、いかなる張若谷の消息も見ることができなかった。

 抗日戦が勝利に終わって、ようやく張若谷の消息が新聞に現れる。1945年9月23日の『辛報』に、陸汀の「文人の十八変化 “見る価値もない”張若谷」という文があらわれ、「張若谷は抗戦の初めにはまだ血気盛んで、日本軍に南京に拘束されたけれども、カトリックの勢力に頼って逃れようとした…」と書いている。そこからわかるのは、張若谷はその後南京の監獄に送られ、最終的にカトリック組織の援助によって釈放された、ということである。さらに『万華筒』1946年第3期に徐大風の「張若谷、切手収集で富をなす」によれば、日本占領期、上海のジャーナリズムに強烈な弾圧が加えられていたころ、ブラックリストに張若谷の名前をあり、そこから彼が正しい道理を守るジャーナリストであったことがわかる。カトリックの助けを借り、一度はベルギー人神父雷鳴遠が創刊した『益世報』に奉職したが、同人の排斥に遭い、トラウマのあった張若谷はジャーナリズムに失望した。ほどなく彼は辞職し、切手販売店の経営に転じた。幼少からの切手収集の経験のおかげで、切手の商売は思いのほか順調にもうけられ、短い期間に、切手商との勝負に勝ち、上海の著名な切手収集家となることができた。

 しかし張若谷の切手収集も順風満帆ではなかった。1948年3月13日の『小日報』「張若谷の破産」よれば、張若谷は毎日事務鞄を提げて、大手の切手商の間を活発にあっせんに回っていたが、それ以外に、余った金で株の取引を行なっていた。しかし張が投資していた四川路橋南の株式取引人が突然取引停止し会社を清算した。会社には十分な処分できる資産があったが、張の資産は凍結され、身動きがとれず、それが切手の取引に影響した。彼は朝早くから店舗で状況を調べ、徒手空拳で家に帰る毎日だった。同年5月19日、交通部郵政総局の切手展覧会が南京路の中国国貨公司で開催され、張若谷もうなだれた様子で会場に現れた。一陣の風で帽子を吹き飛ばされた彼は、あちこち探しまわったが、みつけられないまま立ち去った、という。

(周利成「张若谷的三部曲:作家、报人、集邮家」『各界』2025.1)

著書

『異国情調 張若谷集』海派小品集叢 許道昭・馮金牛/選編 漢語大詞典出版社 1996.4

研究資料

孫迎春『張谷若翻訳芸術研究』中国対外翻訳出版社 2004.9

 
作成:青野繁治

 

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