張鍥

Zhāng Qiè
張鍥
ちょう・せつ

(1933 – )

張鍥自伝:

 1933年、私は安徽省の寿県のある村で小学校教師の家庭に生まれた。少年時代、困苦のため一家が離散しつらい子供時代をおくった。はっきりと覚えているが家は日本人に占領され、私は両親について至るところを翻弄し腹をすかして、ぼろぼろの朊を着ていた。解放前、姉一人と五人の弟と妹がいたが、みんな相次いで放流途中で死んでいった。今いる弟妹はみな解放後に生まれている。そのため私と彼らの年齢の差は大変大きい。
 祖父(元官僚)と母方の祖父(秀才で私塾教師)は地元で詩人として名が通っていたため、私は小さい頃から彼らの影響を受けた。はたきや戒尺に怯えながら古典や詩を暗記したり、また詩をつくったりして学び、文学的癖愛に染まりつつあった。
 1948年、准海戦役の砲弾の轟く中、私は一冊の和綴じ本、猿枚作の「髄遠詩話」をふところにおさめて革命に参加した。当時わずか十五才であった。その後しばらくのあいだに私は文工隊員、食糧監視員、保管班長、財務班長、工会幹事、市委事務室班長、報社文芸班長等の仕事を経た。幾つか小説を発表したので、しだいに地方で人気を集めはじめた。しかし自分も良くわからないのだがある理由で右派というレッテルをうけ、まる20年以上右派とその右派のレッテルをはずす生活を送った。餌をやり、野菜を植え、大砲をかつぎ、獣医にあったたり、糞車を引いたりという生活であった。その中で著名になることはできなかったが、創作団体の地方文化部門のコラム編集に加わることができた。
 1978年になって私の右派問題が徹底して改正した後にやっと全国で正式に文章を発表した。今は中国作家協会書記、安徽省文連副主席等のい職務を担っている。
 私は詩や、劇、映画また散文、小説、報告文学等あらゆるものを書いてきた。文学の全ての形式をほぼみな試してきた。しかし自分で満足のいく作品はないが、取り上げるに値し、社会で一定の影響を与えた作品は「熱流」等である。

 私は文学というものは結局は社会に影響をもたらし、人に美や情熱、力や信じる心を与えなければならないと思っている。作品を読んだ読者が死ぬより生きるほうがよいと思うようでなかればならない。消極的に生きたり、死んだほうが良いと思わせてはならない。作家の責任は真、善、美を助け、虚、醜、悪に勝利することであり、決して逆であってはならない。今までで主に知らされたことは文学に必要なのは才能だが、もっと大切なのは努力である。私の信条は、人が二倍の努力をもってことを成せるなら、私は三倍の努力をもってして恐らく成せるであろうということである。

(『当代中国作家百人伝』求実出版社1989)

作品目録

「改革者」(長編小説) 人民文学出版社出版
「熱流」(報告文学)1980年『当代』第4期 

授賞作品

「熱流」 全国第1回(1977*1980)優秀報告文学賞授賞
 

作成:中本美奈子

 

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