彭荊風自伝:
私の原籍は江西萊郷であるが、少年時代は赣州、南昌、上饒、鉛山などで過ごした。
1929年11月、文官の家に生れた。
父は日本に留学して、大学の文科の教授にもなったが、中国の古典文学に対する造詣が深く、私が5、6歳の時に、唐宋八大家の散文や『資治通鑑』の話をしてくれた。それで私は小さなころから文学が好きになり、小学校の5、6年のころには、人の真似をして散文や小説を書き、当地の新聞の文芸欄「学生園地」に投稿したりしていた。
1946年、父は長期にわたり失業しており、家が貧しかったのと、私が学校の反動的な軍事教練を怒らせてしまったために、初級中学卒業をまたずして2年で退学となり、その後職業をもとめて、流浪しつつ辛酸をなめた。結局苦難の旧中国で19年の歳月を過ごしたことになる。
1949年6月、私は南昌市で、人民解放軍に参加し、軍について西南に入った。仕事と戦闘を通して、私の30数年にわたる足跡は、雲南貴州高原の紅河、怒江、瀾滄江、大盈江、都柳江流域の苗、瑶、傣、侗、拉[示古]、景頗などの民族の居留域に及び、少なからず友人を得た。50年代のはじめ、私の作品はほとんどが、少数民族の竹の二階家の大豆油ランプの下やいろり端で書かれたものである。1955年から1956年にかけて、私は中国青年出版社から二冊の短篇小説集『辺塞親人』と『卡佤部落的火把』を出版社した。解放初期の辺境地区での生活で感じたところを書いたものである。
1956年、ほかの人と共同で「辺塞親人」「芦笙恋歌《のシナリオを書いた。
1957年、私は公劉、白樺といった若い作家たちとともに、いわゆる「右派反党集団に仕立て上げられた。1958年から、私は雲南西部のある農場で4年間労働に従事した。1962年1月、私はある老将軍の世話で、昆明軍区に戻った。しかしそのころ「左」の空気がますます濃くなり、何も書くことができなかった。私は仕方なく、頻繁に辺境へ出かけて行き、一年の7、8ヶ月はそこで過ごした。それは私の後の執筆活動にとっては好都合であった。
「文化大革命」中は、1968年10月から、1975年8月まで、「四人組」によって7年近く投獄され、存分に、精神的肉体的苦痛をうけた。
1979年の春、私はようやく名誉回復され、執筆活動を再開した。それからは、長篇小説1冊、中篇小説5冊、短編小説4冊を出版し、映画を一本撮影した。更に散文や評論も多数発表している。
1979年以来、私は昆明軍区創作員、軍区宣伝部副部長、中国作家協会雲南分会副主席、中国作家協会理事、『民族文学』編集委員、第六期全国人民代表大会代表などをつとめた。
(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)
|