徐懋庸

Xú Màoyōng
徐懋庸
じょ・ぼうよう

(1910.12.16~1977.2.7)

徐懋庸傳略

 本名、徐茂栄、浙江省上虞県下管西堂の人。貧しい手工業者の家庭に生まれた。父親も叔父も機織りに使う竹の織機を造ったり修理する職人だった。家庭は貧しく、高等小学校を卒業すると、父親について浙東の山岳地帯へ行き、機織器を売ったり修理したりした。そのような境遇が徐懋庸の性格の基礎を固め、後に無産階級革命思想を受けいれ、革命の道を選ぶことになる。
 1923年初め、13歳の徐懋庸は自分でつくった鹿渓小学校の教師となる。それから前後して、鹿渓小学校と民強小学校で4年教鞭を執り、1926年まで続ける。
 この4年の間に徐懋庸は上虞県の進歩的知識人の組織「青年協進社」に加入し、組織の刊行物『上虞之声』に文章を書き始めている。この時期の活動によって、徐懋庸の政治的立場は次第に明確になってきた。まだ反帝反封建の民主主義的性質ではあったが、後にマルクス主義を受容する政治的な基礎を固めたと言える。
 1926年、北伐戦争のなかで、徐懋庸は新聞や上虞県の共産党員の直接的影響のもと、初歩的に共産党の主張を知ることになり、当時の中国共産党が指導する革命活動に積極的に参加した。蒋介石の4.12クーデター後、徐懋庸は上虞の党組織の指導下に、闘いをつづけ、『柘榴報』を創刊して、国民党反動派の裏切り行為を暴露した。その後、国民党反動派の逮捕令が出たため、故郷を離れ、上海に移った。
 1927年、徐懋庸は余致力の仮名で、上海労働大学中学部に入学した。1930年に卒業すると、浙江臨海県に戻り回浦中学の教員となる。1932年末離職、この時期から、外国文学作品や人物伝を翻訳し始める。
1933年、再度上海へ。夏から「左聯」に支えられる『申報』副刊『自由談』に投稿を始め、編集者黎烈文に注目され、『自由談』の常連寄稿者となる。これを通じて魯迅先生とも知り合いとなり、「雑文作家」として名前を知られるようになる。
 1933年9月、徐懋庸は自分で訳した『トルストイ伝』を送付し、手紙で二点の質問をした。魯迅は受け取った晩にすぐ返事をした。これ以来、魯迅と徐懋庸は、誠実で友好的な往来を始めることになる。
 1934年上半期、徐懋庸は任白戈の紹介で、中国左翼作家聯盟に加入する。同年夏には半月刊誌『新語林』の編集責任者となる。
 1935年春、任白戈の後を継いで、「左聯」の常務委員会秘書長に就任、林淡秋、何家槐、梅益、周立波とともに常務委員会で働き、また魯迅との連絡の責任を負った。この時期、徐懋庸は社会活動以外に、執筆に勢力を注ぎ、魯迅と同じ立場に立って、大量に槍や匕首のような鋭い雑文を書き、国民党反動派と様々な暗黒勢力に対して、ゆるぎない闘いを行なった。彼が書いた雑文は二冊の雑文集『不驚人集』と『打雑集』にまとめられ、『打雑集』には魯迅が序文を書いている。雑文のほかに『街頭文談』、『怎様従事文藝修養』、『文藝思潮小史』など芸術理論、芸術史方面の論著も著しており、さらに大量の翻訳の仕事も行なった。
 1935年から36年にかけては、上海「文化界救国会」や「文藝家協会」の仕事にも携わっている。
 1936年、左翼作家聯盟が解散し、「国防文学」と「民族革命戦争の大衆文学」という「二つのスローガン」の論争が起きた。論争中、徐懋庸の意見は魯迅と食い違っていた。8月1日に魯迅に送った手紙の中で、魯迅との長年の友好関係に頼って、自分の意見を直接的に述べた。魯迅は「徐懋庸に答える 並びに抗日民族統一先生について」の長文を発表し、徐懋庸も「更に魯迅先生に答える」の一文を書いた。
 1938年初め、延安に行く。5月に毛沢東と長い談話を行ない、「左聯」の解散と「二つのスローガン」の問題を報告した。毛沢東はこれに対し明確で具体的な指示と結論を提示した。その後、徐懋庸は中共中央組織部の陳雲、李富春に個別に状況報告を行なった。
 1938年8月、徐懋庸は抗日軍政大学において、艾思奇、張庚を紹介人として中国共産党に加入した。抗日軍政大学において、編集、翻訳、三大隊哲学教員、政治主任教員、総校政治教育科副科長などの職についた。また何翰之とともに『社会科学基礎教程』『社会科学概論』などの教材を編纂した。
 1943年初め、晋察冀辺区に配属され、文聯主任に就任、『華北文化』を編集、魯迅の「阿Q正伝」と「理水」に注釈をつけた。
 1945年8月、晋察熱遼に配属、熱河省文聯主任、建国学院院長、晋察熱遼聯合大学教育長、副校長、校長などの職務についた。
 1949年、多数の幹部を率いて北京に移動、第四野戦軍南下工作団第三分団を組織し、政治委員に就任。同年10月武漢に到り、武漢大学秘書長、中南軍政委員会委員、中南文化部副部長、教育部副部長、武漢大学副校長などの職を歴任した。この期間の著書には、『マルクスレーニン主義と毛沢東思想の簡単な紹介』『労働者階級と共産党』『魯迅—―偉大な思想家、偉大な革命家』などがある。1957年には中国科学院哲学研究所に配属。
 1956年11月から1957年7月にかけて、党の事業への忠誠心から、再び雑文という武器を操り、短い間に100篇あまりの鋭く辛辣な雑文を書き上げた。北京出版社が『打雑新集』の題名で一冊にまとめようとしたが、反右派闘争の拡大化により、徐懋庸も誤って右派とされたため、出版には至らなかった。
 その後、徐懋庸は西洋哲学の翻訳と研究に没頭し、60年代初期にロジェ・ガロディの著書『人的哲学』『人的遠景』『共産党員哲学者の任務』、サルトルの『弁証法的理性批判』『存在と夢』などを翻訳した。ほかに、詩詞300首あまり、歴史物語数編も書いている。
 文化大革命中は残酷な打撃と迫害を受けた。きわめて困難な状況下、徐懋庸はいかなる不実の言葉も述べず、共産党員としての節を曲げなかった。
 1972年以後、ほったらかされる状態になり、比較的閑な状況になったので、回想録を執筆し、1974年までに12章を完成した。しかし国内の政治状況が悪化し、名状しがたい深い憂鬱にとらわれて、体調も悪くなるなか、続きを書くことはできなかった。
 1976年年末、肉体的に衰弱した状態になっても彼は仕事を辞めなかった。依然として「四人組」が残した悪い文章風土に対して戦いを挑んだ。北京の魯迅博物館の求めに応じ、魯迅が徐懋庸に送ったすべての手紙に注釈をつける作業をした。1977年2月7日にこの世を去った。
 徐懋庸の死後、中央組織部、中国社会科学院は、長年、徐懋庸に加えられた現実とは違う名誉棄損の言葉をすべて撤回し、彼の名誉回復を行ない、長年の政治的冤罪を注ぐ、という結論を出した。
 徐懋庸は生涯、勤勉に学習し、仕事に力を注ぎ、人となりは正直、党には忠実であった。

(『徐懋庸研究資料』江西人民出版社 1985)

著書
 
研究資料

『徐懋庸研究資料』王韋/編 中国現代文学史資料滙編(乙種)江西人民出版社 1985.7

作成:青野繁治

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