曹聚仁

Cáo Jùrén
曹聚仁
そう・しゅうじん

(1900~1972)

曹聚仁小伝:

 字は挺岫、1900年6月26日、浙江省浦江県南郷蒋畈村(現浙江蘭渓市に属す)に生まれる。1916年、浙江省立第一師範学校に入学。五四運動期間には学生自治会の主席と『浙江新潮』の編集長を務める。
 1922年、上海で滄笙公学を創設するとともに、愛国女子中学で教鞭を執る。『民國日報』副刊『覚悟』に長期にわたり原稿を執筆。1923年5月、柳亞子らと「新南社」を結成、章炳麟の内弟子となり、上海の文化学術圏で名を挙げた。
 満洲事変後、曹聚仁は友人たちと、『濤声』、『芒種』などの雑誌を創刊、『社会日報』紙に社説を、『申報』副刊『自由談』に原稿を発表し、魯迅と密に交流を行なった。また陳望道と『太白』誌を共同編集し、編集委員を務めた。
 1935年、『芒種』の編集長となり、林語堂を代表とする「論語派」に反対し、魯迅は支持のため積極的に投稿した。同年曹聚仁は鄒韜奮、沈鈞儒らと抗日救国会の11名の委員の一人となった。
 1937年8月13日、第二次上海事変が勃発すると、曹聚仁は長い上着を脱ぎ捨て、短い服装に替えて、戦地記者の生活に跳び込んだ。台児荘の大勝利と「皖南事変」の真相をスクープした。1941年江西贛南にあった蒋経国の要請をうけ、『正気日報』を創刊し、編集長となった。抗戦期間に彼は江西、浙江、福建などの戦地を周り、大量のニュース報道、人物通信、戦地雑感を執筆し、『東南日報』、『前線日報』、『大剛報』、それから香港の『立報』、『星島日報』に掲載、一部の記事は戦時教科書に採用された。
 1943年春、曹聚仁は商務印書館の王雲五を訪ね、「戦史」を執筆する計画を語った。
 1946年夏、上海の家にこもって『中国抗戦画史』の執筆に没頭し、半年で完成させ、1947年5月に聯合画報社から正式に出版した。
 抗日戦後、国民政府から勲章を授与され上海に戻って、編集者と教師の生活を再開した。最初『前線日報』の編集責任を負ったが、国民党、共産党の関係が複雑になり、言論も活動も思うようにできなかった。そこでジャーナリズムの活動の重心を香港『星島日報』に移し、その外勤記者となったが、この国境外の新聞は原稿の採用や通信の発表において、大いに役に立った。これ以後、彼はジャーナリストとして黄金時代を迎えることとなった。
 1950年曹聚仁は香港で『星洲日報』の編集人となり、また『学生日報』、『熱風』を創刊、シンガポールの『南洋商報』の特約ライターにもなった。1959年、林靄民と『循環日報』、『循環午報』、『循環晩報』を共同経営した。この時期、国民党、共産党の特使として海峡両岸を往復した。
 1972年7月23日、曹聚仁は澳門で死去。周恩来総理は彼を「愛国人士」と称賛し、遺骨を南京に移送し、雨花台ちかくの望江嘰に埋葬するよう指示したが、その後遺骨は、上海福寿園陵園に移葬された。

(百度百科)

著書

『文史討論集』
『国学概論』
『国学体系』
『我與我的世界』
『今日北京』
『万里行記』
『文壇五十年』
『北行小語』
『采訪外記』
『采訪新記』
『魯迅評伝』
『中国抗戦画史』
『我與我的世界 未完成的自傳』三育圖書文具公司(香港) 1973.3
『文思』北新書局 民國26年8月初版 上海書店影印 1987.9

 
参考書

『曹聚仁先生紀念集』上海市政協文史資料編輯部 新華書店經售 2000.6

作成:青野繁治

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