朱湘

Zhū Xiāng
朱湘
しゅ・しょう

(1904~1933.12.5)

朱湘小伝

 朱湘、字は子沅、中国現代著名詩人。1904年、湖南沅陵県に生まれる。祖籍は安徽太湖。1933年12月5日、長江に投水自殺。
 幼少期に両親が亡くなり、兄に養われる。6歳のとき啓蒙教育を受け、義侠小説や童話を好む。後に義侠心と単純な性格を形成するのに影響した。1917年夏、高等小学校を卒業。南京工業学校に入学。この間、新文学の影響を受け、新詩の創作を試みた。1918年秋に卒業、資金援助を受け、上海青年会で英語を専攻した。それによって後に外国文学を翻訳したり、研究したりする基礎が打ち立てられた。1919年秋、清華学校に入学、聞一多、梁實秋らによって組織された「清華文学社」に参加し、団体の影響を受け、新詩の創作に深く興味をもって、「廃園」「荷葉」「死」などの作品を発表するとともに、外国の作品をいくらか翻訳した。1923年から24年にかけて「文学研究会」に加入した。卒業前、学校の賄い所で朝食の指名制度に抵触し、除名処分を受けた。
 1925年、最初の詩集『夏』を出版した。1926年清華学校に戻って学習を継続した。刊行物『新文』を創刊、編集、執筆、出資をすべて私費でまかなった。経済的な困難により、刊行物は2号出して停刊した。1927年第二詩集『草莽集』を出版した。8月にアメリカ留学。ローレンス大学に入学、法文科の教科書が中国人は「猿」と呼んでいたので、怒って退学し、シカゴ大学に転入。翌年、一人の教授が本を借りて返さないと疑いをかけたので、再度退学して、オハイオ大学に転入した。1929年9月、聞一多の要請を受け、学位を放棄して、急ぎ帰国、武漢大学で教職に就く。その後友人の推薦により、安徽大学へ。この間、新詩創作および中国詩歌の英語による紹介の仕事に従事。その後学校側と対立し辞職、以後生活が不安定となり、職を求めてあちこちさすらうなか、家庭の矛盾が日増しに激しくなり、精神的に追い詰められた。1933年12月5日、上海から南京に向かう客船から長江に身を投げ自殺、享年わずか29歳であった。
 朱湘の詩は秀麗にして優雅、格律を重んじ、音声のリズムを重視した。新詩創作の探求において大きな貢献をなした。また彼の散文の風格は独特のものがあり、自然で親しみ深く、流れるように読める。

(『朱湘代表作』華夏出版社 1998.1)

著書

『石門集』文学研究会叢書 商務印書館 上海書店影印
『中国現代文学百家 朱湘代表作』華夏出版社 1998.1

研究資料
 
作成:青野繁治

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