李杭育

Lǐ Hángyù
李杭育
り・こういく

(1957- )

李杭育自伝:

 私は山東の乳山出身で、1957年7月杭州で生まれた。

 父は中国共産党の幹部で、母は経理課に勤めていた。少年時代、文化大革命のために父が巻き添えをくらい、苦しんだ。そのとき自分で絵を学び、黒龍江に行って、農村の生活を描いた。

 中学校を卒業した後、下放し、人民公社の生産隊に入り、その後労働者となり、車の修理をした。

 1977年に杭州大学の中国語科に入り、翌年から小説の勉強を始めた。1979年1月に、短編のデビュー作、『可憐的運気』を発表し、ここからアマチュアの小説家となった。

 1980年共同著作で第一部の中編小説、『白櫟樹沙沙向』を発表し、その年に中国作家協会浙江分会に入った。

 1982年の春、大学を卒業し、浙江省、富陽県のある中学に配属され、教職についた。そして第2回全国国勢調査に参加し、その県の一部の仕事をして、農村の状況を知る多くの材料を手に入れることができた。この後すぐ、ラジオセンターに派遣させられて、記者と編集を任された新聞の仕事に携わった。そして頑張って、アマチュアとして作家を続けていた。

 1983年には、富春江と銭塘江を背景にした“葛川江シリーズ小説”を次々に発表した。その中の『沙竃遺風』などは幅広く好評を得た。1983年の9月に中国作家協会に入り、最も若い会員の一人となった。

 1984年末、中国作家協会の第4回会員代表者大会に参加し、同時に杭州市の文学芸術工作者連合会に派遣され、そこの会の作家となった。このときからプロとしての作家活動を始めるようになった。

 

文学、ヒューマニズムの鎖

 私たちの祖先が神話を伝え始める、その時から、人類始まって以来の連続意識は、千秋万代守りつないできた精神の鎖が、太古の世界から現れて、始まったのだ。人類始まって以来の連続意識は、ただ生物意義的であるばかりでなく、精神意義的なものでもある。また、、この結果“ヒューマニズム”的となった。この“種の意識”とつながってきた自覚意向、つまり、“ヒューマニズムの続き”は、この時代に神話を通して実現した。したがって、文学の始まりから、ヒューマニズムの意向が備わり続けたのである。それはもともと続いてきた、しかも生まれ持ってきた精神現象である。神話は太古の時代の話であるが、私たちの今日のすべての精神カテゴリーの総和に等しい。それは観念、意識、信仰、智慧、感情、欲望・・・を含んでおり、すべてがヒューマニズムの混沌としたものである。私たちの祖先が自分の意識が達した、この混沌とした一切のことを、後世の人に伝えようとしたときに文学は誕生した。文学はこのような作用を起こした。ただ自分の娯楽のためだけであるならば、一切を文学に書き記す必要はない。たとえ、後世になって、人類の理性が発展し、それぞれの部門やタイプごとに多くの専門が現われたとしても、このように巨大で、混沌としている世界を包んでいるものは、文学のほかには何も無く、一代一代と続けられている。文学の意義はここにある。

 しかし連続は繰り返さない。連続とは、進化するという意味を含むひとつの過程であり、未来へ続くものである。それぞれの時代の人は、必ず生きていく苦しみに直面するので、過去の人の中から精神の拠り所を探し、またそうして自己の精神の構築を完成させ、後世のひとへ、精神の遺伝を残していく。ヒューマニズムという乗り物、鎖のひとつひとつの輪は、すべてひとつの輪を受けて続き、また必然的に、次の輪をあてはめているのである。それを断ち切ることは出来ない。その上も下も、断ち切ることは許されない。
このため、素晴らしい作家であれば、鎖という意識をもつべきであり、自分自身が(一作家であるとともに)、輪であることを悟るべきである。彼は深遠にすべてのヒューマニズムを痛感し、それらに抑圧され、励まされ、同時に、悟りをひらき、それらがどこから来てどこへ向かっていくのか模索する。彼は自分の時代の裏と一体になり、自分の体と心、全部でその中をグルグルまわるのである。それは死んでしまった人と話をするのと、同じことであり、まだ生まれていない赤ん坊と話をすることと、同じである。彼は優柔不断になり、視線は定まらず、足取りもふらつく。ヒューマニズムを感じきった負担が、彼の肩にのるということは、こんなにも重いことなのである!彼はあえぎ、苦しみうめき、懸命にもがくなかで、ヒステリックになり、彼の心中の鬱積しているものと、重苦しいものをはきだしてしまう。このことは、現実世界の敏感さと、ヒューマニズムを受け継いだという二重の圧力であり、意識されたプレッシャーと、まだ意識されていないプレッシャーの二重の鬱病である。彼はその負担に耐えられなくなり、命懸けで“鎖”の束縛から抜け出そうとし、粘り強く、激しく一回一回努力しても、依然として、鎖のなかのひとつの“輪”のままである。これは彼の運命であり、彼の悲劇である。しかし、これは彼の幸運であり、彼の“結果”である。

 すなわちこれが文学である。正確にいうと、私の中の素晴らしい文学である。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作品目録

『最後一個漁イ老儿』(中短編小説集)    1985年人民文学出版社
「肖院長一家」(中編小説)        1985年2、3月《小説潮》
「可憐的運気」(短編小説)        1979年1月《西湖》
「姐妹樹」(短編小説)          1984年7月《西湖》
「草坡上那只風筝」(短編小説)      1985年9月《人民文学》
「葛川江的一個早晨」(短編小説)     1986年2月《上海文学》

作成:中川千春

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