李馮訪問記

李馮と仲間たち

1998.8.27

大西 紀


「中国現代作家紀行」というツアーに参加した大阪外大青野繁治氏と筆者は、ツアー日程終了後、一九九八年八月二十七日夕刻、旧知の金海曙氏の紹介により、李馮御夫妻そして新進の評論家賀奕氏とお会いすることが出来た。金氏は著名な詩人で、第二回「劉麗安詩歌賞」受賞者、大阪外大修士でもある。最近では小説の創作に専心されている。賀氏は文芸批評での活躍がめざましいが、『今天』誌等に小説も発表されている。近来蘇童、格非、余華等の後を継ぎ、若手作家群が急速に台頭して来ており、彼らは「新世代」作家と呼ばれている。九八年夏、その代表格朱文が文壇の現状に異議を申し立てるためのアンケートを行った。彼ら三人も「新世代」作家として参加している。中でも李馮氏は旺盛な創作活動を展開され、朱文、韓東と並びその作家群の代表的人物として知られている。以下李馮氏達と過ごした模様を印象記としてまとめたい。

 金海曙氏と彼の自宅近くで待ち合わせをし、御自宅にお邪魔すると、李夫妻、賀氏の三人はすでに集まっており、パソコンを取り囲み何やらやっていた。金氏より紹介を受け、一通りの挨拶をすませた。「何をやっていたの」と尋ねると、インターネット上のチャット(おしゃべり)に夢中になっていたとのことだった。金氏の留守中、彼の名前を「詐り」、ネット上での「名誉」を汚すような方向に話を進めていたらしく、金氏は少し、でも真剣に怒っていた。

 さて、李氏は作家と言うよりもミュージシャンかと思えるような出で立ちで、これまでにお会いしてきた作家とは、まず容貌から一線を画してるなというのが率直な印象であった。髪は肩にかかる程度で、後ろで一つにくくっていた。また縁なしの眼鏡、ラフなシャツ、半ズボン姿。笑顔を絶やさず、爽やかな現代的な好青年とお見受けした。インターネット、容貌……やはり時代は変わって来ているのだろう。
早速、金氏に「雲南コーヒー」でもてなされた。青野氏はやおらパソコンに向かい、インターネットで日本の自分の研究室のホームページにアクセスしているではないか。あ、コーヒー缶を利用しての胡弓の作り方なんて画面が出てきた。彼らは度肝を抜かれたのか、あきれたのか一言もない。続いて目下青野氏が編纂中の「オンライン中国作家辞典」を紹介する。各作家の写真が現れたところで、驚嘆の声やら、「今はこんな顔じゃないよ」などの反応あり。特に当日体調不良で来られなかった、女性作家林白さんの写真をみて、「これじゃかわいそうだ」と写真映りの悪さに同情していたのが印象的であった。お互い緊張気味であったが、これ以降緊張は解け、しばし歓談が続いた。

 場所を四川料理レストラン「太白楼」に移し、夕食を共にする。そこでも楽しい話が続いた。青野氏が崔健のスタジオで崔氏のマーチンを手にとり「一塊紅布」を歌うシーンをビデオで見せた。「李さん、音楽は?」と話を向けると、横から金氏が口を挟む。「李馮は南京大学で今の奥さんを見初めると、連日ギターを持って弾き語りを聞かせたんだ」と思わぬ暴露話。李氏は否定もせず、「ギターはそれ以来手にしていない」と言う。「ギターはやっぱり女を口説く道具だったんだな」とまた金氏。李氏の作品に朱文達とバンドを結成していた頃の事が描かれていたが、虚構ではなく、相当にならしていたのではないかと思った。
李氏、夫人の厳静女史、そして賀奕氏は南京大学の同窓生で、夫妻は南京大学修士、賀氏は北京大学修士(文芸理論専攻)と、共に高学歴の持ち主だ。李氏は古典文学専攻で、大学院修了後は広西大学中文系で教鞭を執っていた。「三国演義の版本について」等専門課目を担当されたとのこと。結婚後奥様も同校に赴任、教員として働いていた。奥様は法科の出身で、今は北京で弁護士として活躍されている。李、賀両氏は大学時代から小説創作を始めており、「賀奕は仲間内では誰よりも早く長編小説をものにしたんだ。その原稿を袋につめ重そうに担いで運んで来たのを思い出すよ」と李氏は懐かしそうにしていた。「くそっ、俺にはどうしても長編が書けない」と金氏が愚痴ている。短編を得意とする彼ではあるが、中編、長編の世界にも憧れを抱いているようなのだ。
李夫妻の好意で御自宅に伺う
。賀氏、金氏はここでも早速パソコンに向かう。中国各地の人々がネット上でお喋りをしている。恋愛、仕事、ゲームが主な話題だ。入力スピードが各人各様で会話はいつもちぐはぐ、脱線気味。賀、金氏は画面上である参加者を誘い「密室」とやらで単独で語り始めた。偶然にも相手は李氏の出身地南寧の人だ。「南寧出身の李馮という有名作家を知ってるか聞け、聞け」と後ろで李氏がうるさい。相手の答えは「知らない!」(一同シーン)聞かねば良いものを。
しらけたところで、青野先生、筆者は李氏と別室に移る。私達のリクエストで氏に自作を朗読して貰い、肉声を前述オンライン辞典に収めるためだ。「朗読なんて小学校以来だよ、ましてや自分の作品なんて」と氏は多分に照れる。「やっぱりこれだ」と彼が選んだのは「我作為英雄武松的生活片断」であった。これは『水滸伝』中の武松が現代から当時の出来事を顧みたりするメタフィクション的作品だ。自分でも気に入っているのだろう。彼は時折「もういいだろう」と懇願するかのように顔をあげながらも数分にわたり朗読を続けてくれた。引き続き、肩肘の張らない気楽な会話が始まった。

 「『西遊記』、『水滸伝』、三言両拍、『論語』等古典に題材を取った作品が多いですが、脱構築を意図したものなのでしょうか」
「いやそんな言葉は後から知ったぐらいで、全くのオリジナルのスタイルなんです」
「『孔子』を書いた動機は?」
「井上靖の『孔子』を読んだことがあるんですが、精力的に取材されていて、感銘を受けました。自分は井上氏ほど精力的に調査をしたりは出来ないが、中国人として、また自分なりの解釈を表現しようと思ったんです」
「『碎爸爸』は単行本と『人民文学』掲載の中編とは全然違っていますが」
「『人民文学』掲載の中編を先に書いたけど、当時は断片的な書き方を試したかったんだ。でもあまり満足な出来映えと言えなくて。もっと膨らませた方が題材が活きると思い、それで長編に書き改めたのです」
「李馮と言う名前二文字とも姓みたいですが」
「これが今では本名なんです。『今では』と言うのには由来があるんですが、原名は李勁松と言います。「勁松」は毛沢東の詩の中に出てきた言葉からとっていて、ありふれた名前なんです。南京大学在学中、友人達が「李勁松」と早口で言うとリーフォンとしか聞こえなくて。それが南京での通名になり、字を当てて李馮としたという訳なんです。本名を変えたのは南京の友達への友情の証になればと思ったんです」
「御両親の反対があったのでは」
「いえ、家では幼名で呼ばれているし、姓を変えたわけではないですから」
「南京特有の方言とか使ってますか」
「いや、地方色の表現は好まないし、出来るだけ標準語を使ってます」
「一日の中で一番筆が進むのはいつ頃ですか」
「うーん、午前中から書いているけど、昼も書いているし……」
「どうして南寧を離れたの?」
「あそこは年中暑くて創作には向いてません。だから他の土地に移りたいと思っていたんです」
「でも北京は物価が高くて大変でしょう」
「まあ、生活に困ったらテレビドラマのシナリオでも書こうかな。テレビは小説と違って収入も良いだろうし」

「『武則天』のシナリオを製作中と聞きましたが」
「張芸謀さんからの注文で書き直したりで、大変なんだ。実はもうやめようかと思ってるんだけど……」
こんなやりとりをしている間に、時間は十一時をまわってしまった。もっと深く語り合いたかったが、どうやら時間切れのようだ。夜も更けてきたので、私たちはお暇することにした。しかし、別室の三人がまだチャットを続けていたのには驚いた。
氏は終始にこやかで、初対面とは思えないような気さくな方であった。しかし創作について語る時には情熱的で、目が輝きを増していたのも強く印象に残った。もっと精力的に作品を読まなくては、又屈託のないあの笑顔を見たい、李馮氏はそう思わせる好漢であった。
「新世代」作家に親しく接することが出来、彼らの日常をかいま見ることが出来たことは大きな収穫であった。パソコンの普及、インターネットでのおしゃべりを楽しむ彼ら。数年前には確かに無かった光景だ。しかし、一見無邪気に見えた彼らもその内面には文学に対する無尽の情熱を潜ませている。そうでなければ今の北京のような高消費社会の中で創作は続けることは出来ない。彼らが時代の流れや大都会の生活の中に埋没することなく、何時までも文学上の理想を追求し続けられるよう願わずにはいられない。
【李馮 プロフィール】
一九六八年広西南寧生まれ。一九八四年「飛び級」により十六歳で南京大学入学。一九九二年中国言語文学科大学院を修了、修士学位を取得。広西大学で教鞭を執るが、一九九六年辞職。一九九七年「広西文学院」契約(二年間)作家となる。現在は北京在住。一九九一年より作品を発表。作品は『人民文学』、『収穫』、『花城』、『作家』『今天』等に多数掲載。長編小説に「孔子」、既刊の小説集に『廬隠之死』(海天出版社、一九九六年十月)、『中国故事』(中国広播電視出版社、一九九七年八月)、長編小説『碎爸爸』(長春出版社 一九九八年一月)がある。愛煙家。パソコンで創作。血液型はB型。
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