林斤瀾

Lín Jīnlán
林斤瀾
りん・きんらん

(1923-2009.4.11)

林斤瀾自伝:

浙江省温州の人。1923年生まれ。兄弟姉妹は10人、父親の小学校校長の収入で生活する。ゆえに、「節約を励行」するのみ。
私の通った小学校は、少なくとも「開けた」学校と言えるもので、学生に自治を勧めていた。私は自治会で図書館長になったことがある。その数年前から「その名がとどろい」ていた、『モンテクリスト伯』や『ジェーン・エア』などは、私の図書館長の任期中に、「わけもわからぬながら呑み込んだ」作品である。それから詩を詠み、文を書いた。書いただけではおさまらず、倣宋朝体で、ダウリング社のクリーム色やピンクやブルーの紙に書き写して、綴じて冊子にし、表紙には花や鳥などの自然を描いて、何とか園と呼ばれる壁に掛けたりしたものである。本当に愉快だった。
中学にあがってからは、抗日救亡運動に参加し、それから地下革命活動にも参加した。
抗日宣伝の中で、自然に演劇と関係をもつようになった。後にはカレッジで専門に映画と演劇を学んだ。20歳を過ぎて少しずつ、私の性格がこの仕事と合わないと悟るようになった。
15、6歳から、家を離れて一人で生活を始め、東南、西南のあちこちを回った。そのころは、世の中がひっくり返るのが面白かった。
建国以後は、北京市文聯創作組に入り、ようやく「安らかに暮らし仕事を楽し」みながら、創作の勉強ができるようになった。最初はすらすらと脚本の習作ができあがったような気がした。普通なら刊行物に発表し、作品集を印刷することもできた。しかし興味をもって上演してくれる団体がなかった。その後誰かが、印刷されただけで上演できない脚本なんて私生児みたいなものだと言うのをきいた。それであわてて小説を書く勉強に切り替えた。党の育成のおかげで、日を追って短編小説という形式を熟知するようになった。
50年代および60年代前半に、『布谷』(劇本集)、『春雷』(小説集)、『飛筐』(特写集)、『山里紅』(小説集)を出版し、パンフレットや散文も書いたが、散文はバラバラで作品集には収めていない。
『台湾姑娘』あたりから、読者に注目されはじめた。以前の選集に私の作品を選ぶとしたら、「春雷」がよく選ばれていたが、今では「台湾姑娘」、「新生」それから「草原」「喜事」が選ばれる。これらはいずれも外国語に訳されている。60年代はじめには、座談会や新聞雑誌の紙誌面で、私の習作が論じられたが、それによって先輩作家に教えられ、若い読者に励まされ、鞭撻を受けた。
私の描いた題材は、大抵農村か知識人の現実生活であり、歴史にも触れるが、半世紀も前のことにまでは行かない。学習の過程では、題材の取捨選択や言語に注意を払い、常にそのような問題をないがしろにはできなかった。
1966年から1977年まで、まるまる12年間は作品が書けなかった。何も発表しなかっただけでなく、たたきだそうと試みた短めの長編「荒子」も、今では原稿一枚残っていない。
昨年北京市文聯に復帰し、(文芸創作の)隊列に戻ったが、その喜びを禁じえず、善し悪しも考えず、続けざまに10数篇の短編小説を書いた。そのうち「竹」「悼」「陽台」「拳頭」「開鍋餅」は好きだと言ってくれる人がいる。
私は現在北京市文聯の専業作家であり、理事でもある。創作における考え方は、やはり年齢を忘れ、若い作者たちと「交流」し、今の世の中の風貌を反映するようにしなければならない。そのためにももっと短編を書かねばならない。(1979.6)

(『中国当代作家自伝』中国現代文学研究中心1979.10)

単行本・作品集

『石火』湖南人民出版社 1982.8
『立存此照』中国当代名人随筆 陝西人民出版社 1994.1第1版/1995.10第2次印刷/12.20元
『門』京味文学叢書 北京燕山出版社 1997.8/20.00元
『林斤瀾文集』全10巻 人民文学出版社 2015.12

  
邦訳

「悼む」 谷川毅・哈紅/訳・注 『火鍋子』第8号 1993.5.30
「一文字先生」 谷川毅・哈紅/訳・注 『火鍋子』第10号 1993.10.31
「小説漫談」 谷川毅・哈紅/訳・注 『火鍋子』第12号 1994.2.27
「郷音」 谷川毅・哈紅/訳・注 『火鍋子』第13号 1994.4.24
「イワヒバ」 谷川毅・哈紅/訳・注 『火鍋子』18号 1995.2.26

 
 
作成:青野繁治

Chinese Literature Site

error: Content is protected !!