Shā Tīng
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(1904-1992) |
沙汀小伝 沙汀の本名は楊朝煕 四川省立第一師範学校卒業後、楊子青に改名。沙汀という名は彼が1932年に出版した短編小説集≪法律外的航線≫後に≪航線≫に改名)のなかで使われたペンネームである。彼はまたすでに発表していた短編≪電報・自由談≫ 短編小説集≪孕≫のなかで伊光というペンネームを使っていた。 (『中国当代名作家小伝』 代芸術出版社 1990.6)
現代小説家。本名を楊朝煕、楊子青という。かつては尹光のペンネームを使っていた。四川省安県出身。1922年に成都省第一師範学校に入り、〝五四〝新思潮に触れ、魯迅作品やマルクス主義の雑誌や書籍を閲読し始める。また、クラスメートである湯道耕(艾蕪)と一緒に文学を研究し、新文芸に対して興味を覚えはじめる。1926年、卒業後、北京大学を受験するために北京へ行く。しかし、魯迅が既に北京を去り南方へ向かったことを聞き、その上、受験の時期が既に過ぎていたので、すぐに四川へ戻り、中国共産党が指導する地下革命活動に参加するようになる。1929年には、上海で同郷である任白戈や楊伯凱等の数人と〝辛墾書店〝を共同経営し、この時から世界文学名著を大量に読み、 、チェーホフや芥川竜之介などの作品も研究し始め、10月革命後のソ連″同路人″の作品も広く読みあさった。1931年、文壇に入り、同年11月には艾蕪と一緒に魯迅に手紙を出し、小説の題材について教えを求めた。1932年には中国左翼作家連盟に入り、″左連″の委員を務め、同年の後半には″沙汀″のペンネームで、第一作目の小説集≪法律外的航線≫、これに続いて≪土餅≫≪苦難≫≪祖父的故事≫等数作品出版した。これらの作品の多くは四川省の農村で抑圧された人々の苦難の生活や、純朴な精神、及び封建統治者やその使い走り的な卑しむべき笑うべき行為を描いている。1938年には、何其芳と下之琳と一緒に延安に行き、毛沢東の接見を受け、また魯迅技術学院文学部主任を勤めた。この後、賀龍に従い晋西北の和冀に向かう中で、著名な伝記文学≪随軍散記≫(すなわち≪記賀龍≫)を書いた。1940年には重慶に行き、皖南事変後故郷に戻り、解放まで(1949年中華人民共和国成立まで)執筆活動に従事した。抗日戦争時は、沙汀の創作の高揚期で、≪磁力≫、≪播種者≫、≪獣道≫等短編小説を出版、中篇小説≪闖関≫、長篇小説≪陶金記≫、≪困獣記≫、≪還郷記≫を創作した。彼は自分の筆力を国統区の暗黒面や、醜い社会現象の批判にむけ、新、旧との固執や、抗戦、改革を妨げるすべての不良現象を明るみにしている。そして、そこに壊滅的な笑いを投じている。彼の作品の多くは風刺、喜劇的な色彩を持つ。題材に対して深く、細かいところまで掘り下げている。新中国成立後、沙汀は四川省文連主席、中国作協四川分会主席、中国社会科学院文学研究所所長、中国作家協会副主席などの職を歴任した。この時期に、≪過渡≫、≪風浪≫、≪夜談≫、≪戸★家秀≫等短篇小説やスケッチを書いた。1977年の冬、中篇小説≪青楓坡≫を発表した。現在、≪沙汀短篇小説選≫等が世に出ている。 (『中国現代文学辞典』 華岳文芸出版社 1988.12) |
作品 単行本『沙汀短篇小説集』人民文學出版社,1953 |
参考書・研究資料『沙汀研究專集』浙江文藝出版社 1983.9 |
作成 :島田 知美 |