潘漢年

Pān Hànnián
潘漢年
はん(ばん)・かんねん

 (1906-1977)

 潘漢年小伝:

 江蘇省宜興の人。潘健行、水番三郎、K、小開、蕭淑安などの仮名を用い、天長、亜霊、溌皮、溌皮男士、愛仙、蕭愷などのペンネームがある。曾祖父、祖父は清朝の挙人であった。父親は秀才であった。著名な学者潘梓年(1893-1972)と潘菽は彼の従兄である。父親は浪費家でその為家は落ちぶれた。潘漢年は常州中学で学んだ。1923年進歩的文芸運動に参加。1924年創造社に加入、創造社の「八人の若き同伴者」の一人である。同年、『洪水』誌の主編をつとめる。1925年中国共産党に加入。第一次国共合作時期、前後して『革命軍日報』編集長、国民革命軍総政治部宣伝科長を歴任。1927年大革命失敗後も引き続き革命的文化運動に従事。文芸雑誌『All』、『幻洲』の編集に従事、『現代小説』を主宰、『畸形』半月刊の編集を担当。1928年、党中央宣伝部の配属となり、文化、出版、文藝界における統一戦線の連絡工作の責任を負った。1930年左聯が成立したとき、彼は重要な組織者の一人であった。その他にも、「社聯」「劇聯」「上海藝術劇社」の指導工作を行なった。党中央直属の文化工作委員会の初代書記であった。更に左翼文化総同盟党組書記、防衛自由反帝大同盟及び国際互済会などの仕事も担当した。1931年から1933年まで中央軍事委員会「特科」に配属され、1933年ソビエト区の中心瑞金に行き、江西ソビエト区党中央宣伝部長などを歴任。1934年紅軍とともに「長征」に従軍するが、遵義会議の後、コミンテルン工作に派遣される。1936年7月から中共上海弁事処主任。1937年第18集団軍駐上海弁事処主任。大量の抗日救亡工作を行なう。1949年以後、中共中央華東局及び上海市委社会部長、上海市委常務委員会、副書記、第三書記、上海市副市長などの職を歴任。1955年4月3日、いわゆる「内奸」問題で逮捕され、予備審査8年、1963年に懲役15年、政治的権利を終生剥奪される。その後仮釈放されるが、「文化大革命」初期に再び収監され、党籍を永久に剥奪、無期懲役の判決を言い渡され、終生の政治的権利を剥奪される。1977年4月14日病死。1982年8月23日、中共中央はその冤罪を雪ぎ、名誉回復をするために、過去の判決を撤回し、彼の歴史的功績を追認した。

著書

『離婚』上海光華書局 1928.6.1 4角5分
『潘漢年雜文選』百花文藝出版社 1986.1

 作成:青野繁治

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