王任叔

Wáng Rènshū
王任叔
おう・にんしゅく

(1901-1972)

王任叔小伝:

 家譜名は運鏜、字は任叔、号は愚庵、筆名に巴人などがある。浙江奉化区大堰鎮の人。父は農業に従事していたが、初歩的読み書きはできた。任叔は8歳で学校に入学、13歳のとき県の小学校統一試験に参加、作文の成績は最優秀者に選ばれた。
 1915年に大学に入学、五四運動期には寧波学生聯合会秘書を務めた。
 1920年卒業後、鎮海、鄞県、慈渓、奉化などの小学校で教鞭を執る。この間、奉化の進歩的団体剡社に加入。
 1922年5月より散文、詩作、小説を発表し始める。鄭振鐸の紹介により、文学研究会に加入。
 1924年10月、『四明日報』副刊『文学』を主編。中国社会主義青年団に加入。翌年県立初級中学の教務主任となる。剡社の月刊誌『新奉化』を主編。11月『小説月報』に小説「疲憊者」を発表し、注目された。
 1926年7月広州へ赴く。国民革命軍総司令部秘書処機要科秘書、代理科長をつとめ、さらに中国共産党員となり、機密情報を党組織に報告していた。
 1927年3月、寧波中山公学、第四中学の教師をつとめ、一度は中国共産党寧波地区委員会宣伝部の工作に携わる。6月に逮捕されるが、荘崧甫によって保釈される。この年、最初の小説集『監獄』を出版。
 1928年、上虞春暉中学で教鞭。
 1929年1月、日本へ。社会科学とプロレタリア文学を研究する。日本語を自習し、『ソビエトロシア女性教師日記』および日本の長編小説『鉄』を翻訳した。10月、日本当局が中国の進歩的留学生と共産党員を逮捕したため、迫られて帰国。同年、上海で中国自由運動大同盟を結成、中国左翼作家聯盟に参加、中共曹家渡区委員会責任者をつとめ、大夏大学党支部を指導した。
 1931年4月、2度目の逮捕、懲役6か月の判決を受け、党組織との関係が途絶える。
 1932年、武漢で教職につく。1933年1月、南京国民政府交通部航政司科員となる。1935年、「ノラ」事件に連座し、3度目の逮捕。毛思誠等の斡旋により保釈される。翌年7月、上海で中国文藝家協会の結成に関与、沈鈞儒、鄒韜奮ら七君子の救出活動に参加。
 1937年、上海文化界救亡協会秘書長、『救亡日報』編集委員をつとめる。翌年、中国共産党に再加入、中国共産党江蘇省委員会文委委員を務める。8月以降巴人の筆名で文章を発表。この年、許広平、鄭振鐸、胡兪之らと共同で『魯迅全集』を編纂し、『譯報・大家談』『申報・自由談』『公論叢書』などを主編した。
 1939年、文化中心小組の召集人となり、「孤島」上海の文藝工作を指導。翌年夏までに、『文学讀本』『邊鼓集』および劇本『前夜』を出版した。
 1941年3月、命をうけ香港へ。7月にはシンガポールへ赴き、南洋華僑師範で教鞭をとる。胡兪之、郁達夫らと、文化界が反ファシスト闘争を行うのを指導した。12月に太平洋戦争が勃発すると、星華戦時工作団宣伝部長をつとめる。
 1942年2月、雷徳容らとインドネシアのスマトラ島を漂泊、先達、棉蘭などの地を転々とした。インドネシア進駐日本軍の指名手配を逃れ、原始林のなかにある泅拉巴耶(インラバエ)村に隠れ住み、焼き畑農業生活を送る。
 1945年8月、日本が投降してのち、スマトラ華僑民主同盟に参加、『前進週刊』、インドネシア語の『民主日報』を主編、大型話劇『五祖廟』を書き上げた。
 1947年7月、オランダ軍に拘束されるも、組織的努力で救出釈放され、10月に香港に戻る。
 1948年8月河北省平山県赴任の命が下り、中共中央統戦部第三室綜合研究組組長などの任にあたる。
 1949年、第一次文学藝術工作者代表大会、政治協商会議第一次全体会議に出席した。
 1950年、中華人民共和国駐インドネシア特命全権大使をつとめる。1952年帰国、外交部党組成員、政策研究委員会委員をつとめる。
 1954年、『文学論稿』を世に問う。同年4月、人民文学出版社副社長、総編集長に任ぜられ、1957年、同社長及び党委員会書記となる。
 1959年、康生が巴人を名指し批判し、巴人と蒋介石は同郷で、国民党の要職にもついたことがあり、それによって文学界の代表人物になったと指摘、史学界の尚鉞、経済学界の孫冶方とともに厳しい批判をうけ、党内外の職務をすべて奪われた。文学創作の権利を奪われた後、彼は史学研究に転じた。
 1960年、「反右傾」運動で批判を受け、党内外の職務をすべて奪われたが、翌年から中共中央対外聯絡部東南アジア研究所編譯室主任に任ぜられる。
 1966年、160万字におよぶ大著『インドネシア史』の初稿が完成したが、文化大革命で批判闘争をうけ、隔離審査に回される。同年、家宅捜索とあらゆる迫害を受ける。1968年から大字報で、巴人は郁達夫殺害事件で日本軍に密告した裏切り者である、という宣伝が行われ、ますます迫害がエスカレートすることになった。
 1970年、故郷に送り返され、村の西の端のあばら家に閉じ込められ、迫害の結果、精神に異常をきたした。
 1972年7月25日病死。1979年6月に名誉回復され、政治的権利を認められた。

百度百科

 
著書

『論魯迅的雑文』巴人/編 遠東書店 民國29年10月初版 上海書店影印 1984.12
『流沙』王任叔/著 民国26年6月 商務印書館 上海書店1993.12影印
『文學讀本續編』
『王任叔雑文集』

参考書・関連書

『巴人先生紀念集』上海魯迅紀念館/編 人民文学出版社 2001.1

作成:青野繁治

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