王統照

Wáng Tǒngzhào
王統照
おう・とうしょう

(1897.2.9~1957.11.29)

王統照小伝

 1897年2月9日、山東省諸城県相州鎮の地主の家庭に生まれる。字は剣三、変名として王恂如を用いたことがある。筆名は剣先、剣など。1902年から家塾で経、史、諸子を読み、古文や詩詞を暗誦した。また書を好み欧陽詢体を学んだ。10歳のとき西洋の地理や数学に接する。また『封神演義』や『西遊記』などの小説にも興味をもつ。

 1913年に済南の山東省立第一中学に入学。林紓訳の外国小説を読み、二十回ものの『剣花痕』という旧体小説を書くが、未発表。1916年に孟昭蘭と結婚。『新青年』に投稿。二巻四号「通信欄」に掲載。文言で短篇小説を書いたが、現在散逸。初めて白話で書いた短篇小説「記念」は翌年『婦女雑誌』4巻8号に掲載。

 1918年、北京に行き中国大学英国文学系に入学。翌年「中国大学学報社」で編集人となり、『中国大学学報』創刊号を出版。1919年5月4日、五四運動がはじまり、天安門でのデモ集会に参加。11月友人と総合誌『曙光』を創刊。蔡元培の美育理論の影響を受ける。翌年、『晨報』特派員としてソ連に向かう瞿秋白の郭紹虞宅での送別会に参加。

 1921年1月、文学研究会の成立に際し、発起人に名を連ねる。改革第一号の『小説月報』創作欄に「沉思」を発表。12月、中国大学の教員と学生の組織「晨光雑誌社」が成立、編集部副主任(後に「編集幹事」と改称)となる。1922年5月、晨光雑誌社から『晨光』創刊号が発行される。夏、周作人宅に盲目ロシア詩人エロシェンコを訪ねる。10月、商務印書館から文学研究会叢書の一冊として長篇小説『一葉』を出版。中国新文学史上最初の白話長篇小説である。1924年、短篇小説集『春雨之夜』を商務印書館から文学研究会叢書の一冊として出版。4月、タゴールが訪中、徐志摩とともに済南での講演会に同行し、通訳もつとめる。8月、中国大学教授兼出版部主任に就任。

 7月、中国大学を辞職、青島鉄路中学、青島市立中学で、1932年まで教鞭を執る。1933年9月、長篇小説『山雨』を開明書店から出版。国民党当局から禁書の処分を受けるも、交渉により24-28章を削除することで発行を実現。

 1934年、不動産を売却、自費でヨーロッパの視察に向かう。2月に上海から香港、エジプトを経て、4月にイタリア、スイスに到る。その後フランスからドーバー海峡を渡ってロンドンに、大英博物館の図書や資料を閲覧する。しばらくしてロンドン大学で半年ほど古典文学の研究を行う。大戦の迫るポーランドやレニングラードを観光して、オランダ経由でロンドンに戻り、翌年春に帰国。しばらく青島に戻って過ごすが、12月には上海文化界救国会に名を連ねる。

 1936年春に上海に居を移し、6月には「中国文藝家協会」に加入。7月『文学』誌主編となる。茅盾の『中国的一日』において、編集委員をつとめる。10月、魯迅、茅盾、巴金、郭沫若、林語堂、張天翼、謝冰心らと「文藝界同人為団結御悔與言論自由宣言」に署名。10月19日、魯迅死去、『文学』誌で魯迅追悼号を出す。11月23日、「抗日救国会」の沈鈞儒、史良らが国民党当局に拘束されたことに対する抗議と救援の活動に奔走。1937年、青島が日本軍に占領され、王統照の屋敷と蔵書が没収される。

 1938年より、上海音楽専門学校、曁南大学から招聘され、教授に就任、中国文学を講義。

 1945年7月、密かに青島に戻る。翌1946年、山東大学教授に就任。1947年、山東大学学生の反内戦、反飢餓のデモを支持する発言をして、大学を解雇される。蟄居する。
 1949年7月、中華全国文学藝術工作者代表大会が開催され、全国文聯委員、文学者協会理事に選任。同時に、山東大学教授に復職、文学系主任および山東大学校務委員会委員に就任。10月、青島市各界人民代表会議主席団および常駐委員会委員に選任され、青島市人民政治協商委員会委員に就任。

 1951年、山東省第一回文学藝術工作者代表大会を開催、開幕の辞を述べ、山東省文聯主席に選任される。1952年、山東省人民政府文化局局長に就任。1953年、9月から10月にかけて、第二次全国文代大会に出席、全国文聯委員および作家協会理事に選任。1954年、第二次山東省文藝工作者代表大会に出席。8月、第一回全国人民代表大会代表として北京へ。上海で山東省代表団団長として、演劇コンクールに参加、急に発病して、半年間入院する。1955年3月、山東省人民代表大会第二回会議に出席、活動を総括。7月、北京で全国人民代表大会第二回会議に出 1957年6月、全国人民代表大会第四回会議に出席、周恩来の報告を聴いたあと、心臓発作により、北京医院に入院。10月危篤状態から持ち直し、詩を書いたりするが、11月、再度入院、29日午前5時に、済南山東医学院附属医院で病没。12月1日、済南山東劇院で追悼大会が催され、済南金牛山公墓に葬られた。

(馮光廉、劉増人「王統照年譜」『王統照作品欣賞』廣西人民出版社1986にもとづいて整理。)

著書

『王統照研究資料』中国現代文学史資料滙編(乙種)寧夏人民出版社 1983.10
『王統照作品欣賞』廣西人民出版社 1986.11

 
作成:青野繁治

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