聞捷

Wén Jié
聞捷
ぶん・しょう

(1923~1971)

聞捷小伝:

 江蘇省丹徒県の人。本名巫之禄、かつて巫咸の名を用いた。ペンネームは趙文節、聞捷である。現代中国の著名詩人である。日中戦争前、李荘小学校を卒業し、南京の石炭工場で見習いとなり、政治的に目覚め始める。日中戦争勃発後、武漢に流れていき、抗日救亡演劇の仕事に参加する。1940年に延安へ行き、陝北公学で学習し、その後陝北文工団で働き、更に党紙の編集人および記者をつとめる。1944年から創作活動を始め、戦地通信や散文を少なからず発表した。最初は更に芝居の台本も書き、陝甘寧辺区の土地革命を背景とする大型歴史歌劇『翻天覆地的人們』、ヤンコ劇『加強自衛隊』はいずれも単行本を出した。その後、短篇小説、雑文および特写も書いた。短篇小説「肉体治療和精神治療」「最後的突撃」などが、『解放日報』や『辺区群衆報』の副刊に散見される。要するに、彼の詩人としての生涯が始まる以前の戦争の歳月において、彼は各種文藝形式の習作を試み、創作の才能を表し始めた。さらに10年近くが過ぎ、彼は正式に詩人の身分で文壇に登場し、全力で詩歌の創作に従事すると同時に、雑論、短篇小説、特写などを手掛けた。
 1945年、聞捷は『群衆日報』の編集者、記者組組長となった。その後西北解放の戦闘に参加し、1949年には軍隊について新疆へ、新華社西北総社取材部主任の職につく。新中国成立後は、1952年新華社新疆分社社長となる。このころから、後に彼の最初の詩集となる『天山牧歌』に収められることになる抒情詩篇「トルファン情歌」「ボストン湖濱」「果子溝山謡」などの執筆に着手している。これらの詩篇のなかで、彼は炎のような熱情と民謡性に富んだ格調で、多姿多彩な兄弟民族の生活風景と若い男女の清らかで美しい魂を描き出した。そういった題材は新しく、主題も鮮明で、音節が響きわたる抒情詩は、すがすがしく明るい美しさという感覚を人に与える。これは中国の当代文学史において、最初の辺境民族の新生活を反映した詩集となり、即座に人々の注目と愛を勝ち取った。
 1953年、聞捷は『文藝報』記者、『人民日報』特約記者となった。東南部の海岸へ行き、水平とともに生活したり、東南一帯の古い革命根拠地を訪問したりしている。こういった生活とそこから得た感性は、彼の詩篇に反映され描写されることとなる。
 1957年、聞捷は中国作家協会に転属となり、創作活動に専念することとなる。1958年、中国作家協会蘭州分会副主席に就任。1957年以降、長期にわたり、甘粛地区で各種の運動に身を投じ、1956年『天山牧歌』を出版したのにつづき、詩集『祖国!光輝的十月』(1958年)、叙事詩『東風催動黄河浪』(1958年)を出版した。1958年に書き終えた『河西走廊行』(1959年出版)は、「大躍進の陣太鼓」と褒めそやされた。同年、李季と共同で執筆した、新聞の冒頭詩の第一集『第一声春雷』および第二集『我們遍挿紅旗』が前後して出版された。これら運動の為に即興で作った詩篇には、詩人の内面の感覚を描いた佳作も少なくないが、また相当数の作品は、歴史的原因により、内容上うわついた生活の実態とは異なる傾向が存在している。これは、聞捷の詩歌の道における曲折の歴程であるばかりでなく、中国の当代文学史上、歴史の教訓として戒めとすべきことで、それを詩人聞捷個人の責任として追求することはできない。
 1959年、聞捷は長篇叙事詩『復讐的火焔』の第一部『動蕩的年代』を発表しはじめ、1962年には、第二部『叛乱的草原』を出版した。第三部『覚醒的人們』は若干の断片を発表したのみで、その他の原稿は散逸して残っておらず、これが詩苑における一大遺憾事となった。『復讐的火焔』は一万数千行に及ぶ史詩であり、聞捷の詩歌創作における新しい突進による収穫であった。それは中国の新詩発展史における新しい突破であり、収穫であった。長詩はカザフ族の生活、風俗とバリコン草原の壮麗な風景を見事に描き出しているだけでなく、さまざまな矛盾の発生、激化、解決という複雑な紛争の物語を通して、バハール、ブルバ、スリヤといった様々な性格の鮮明な人物像を創り出し、逞しく勇ましい感覚を読者にもたらし、詩人の更に成熟に向かう才能と詩歌領域における鮮明な独創性を示している。詩人が叙事詩あるいは史詩を書くために、格律の面でも探究に留意し、有意義な刷新の挙たることを失わなかった。聞捷の詩歌の風格は、『天山牧歌』の細緻で巧みな軽やかな歌から、高らかに歌い上げ、壮大な画面と一気に駆け抜けるような史詩的勢いへと発展した。茅盾が第三回全国文代大会の報告において、『動蕩的年代』にたいして、歴史的な評価を行ない、長篇叙事詩の「もう一つの形式」の「代表」と称した。(『反映社会主義躍進的時代,推動社会主義時代的躍進』に見える。)
 建国十周年に際し、聞捷は胡采が序文を書いた詩選集『生活的賛歌』を出版した。1960年6月に全国群英会に出席してからは、詩人袁鷹とともに外国を訪問し、1963年には二人でパキスタンを訪問した際の合同詩集『花環』を出版した。1964年には同じく二人で散文合集『非洲的火炬』を出版している。
 60年代初め、詩人は長年離れていた故郷に戻り、もうひとつの抒情長詩『長江万里』の構想が浮かんだ。長江両岸の人民の壮麗な闘争生活を描こうと言う意図である。それは積極的な主題と広大で勢いのある構造をもった史詩的な作品であるが、残念ながら幾つかの断片を発表しただけで、「十年動乱」の嵐が横殴りに吹いて来た。そのため詩人の歌声は絶唱となり、死して後ようやく志は報いられた。
 「文化大革命」中、聞捷はあろうことか「裏切り者」の罪名を着せられ、投獄された。その後、杭州湾岸の「五七幹部学校」に送られた。彼は心臓病を患っていたが、昔延安の深山密林中で開墾を行なった強さで、幹部学校の労働に参加した。「四人組」の彼に対する迫害は決してそのために「寛大」になることはなく、新しい罪名をねつ造され、「反革命」「階級敵」と見なして、残酷な闘争と侮辱を加え、そのため1971年の初春に彼は冤罪を着たまま死去するに至った。死後、彼は党籍をはく奪されたばかりか、残された三人の娘も家を追い出され、放浪の身となった。彼自身の遺灰も行方が知れなかった。彼の妻杜芳梅は、彼の死より先に、侮辱に堪えず、ビルから墜落死していた。
 「四人組」を粉砕したのち、関係する党組織は1977年10月に彼の党籍を回復し、上海市文化局は、1978年8月8日に評価を逆転し、名誉を回復した。1978年12月30日上海市文学藝術聯合会および中国作家協会上海分会は、上海龍華革命公募において、聞捷の遺骨の安置式を行なった。この中国当代優秀詩人を記念するために、人民文学出版社は1978年に『聞捷詩選』を出版した。
 聞捷は才気横溢、熱情ほとばしる詩人である。1954年に中国の詩壇に登場して以来、文藝界の重視と読者の愛読を受けてきた。その詩作は既に外国語に翻訳され、国際文藝界の友人たちからも賛美を受けている。

復旦大学中文系「聞捷研究資料編輯組」1980.9 『聞捷全集』第一巻より

著書・単行本

『聞捷全集 第一巻 抒情短詩』北岳文藝出版社 2001.9
『聞捷全集 第二巻 叙事長詩』北岳文藝出版社 2001.9
『聞捷全集 第三巻 長詩評論』北岳文藝出版社 2001.9
『聞捷全集 第四巻 散文 小説』北岳文藝出版社 2001.9

研究資料

『中国当代文学研究資料 聞捷専集』福建人民出版社 1982.9

作成:青野繁治

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