航鷹

hangying

Hángyīng
航鷹
こうよう

(1944- )

航鷹自伝:

わたしの本名は劉航英、1944年2月17日天津に生まれたが、原籍は山東である。私が幼いころ両親はとも革命に参加した。

1959年に私が天津の第一女子中学を卒業すると、文学と美術が滅法すきだったので、天津人民芸術劇院舞台美術訓練班に入学した。仕事をはじめたときはわずか15歳であった。劇院では背景画をかいたり、衣装を染めたり、衣装設計助手などの舞台美術の仕事をし、天津工芸美術学院舞台美術系に通って、研修を受けたりもした。

長く舞台関係の仕事をしたので、演劇や映画の芸術的薫陶を受けて、仕事の時間外には、中国や外国の名著を好んで読んだ。1970年に処女作の一幕喜劇『計画計画』を発表し、上演も成功した。それ以後劇院の専属劇作家となった。1982年中国作家協会天津分会に配属された。

現在は、中国作家協会理事、中国作家協会天津分会理事、中国戯劇家協会会員、中国戯劇家協会天津分会理事である。
家庭生活は穏やかである。夫の劉晋秋は天津光学公司販売科の科長で、助理工程師である。間に一男一女があり、ともに中学で学んでいる。私は平日は家庭で家事をする、主婦作家なのである。

近年来の作品は、短篇小説が主であるが、たまに映画やドラマの台本も書いている。作品の内容は、倫理道徳、婚姻愛情を題材にしたものが多く、また青年の生活や工場、町角、市井の生活を反映した小説も書いている。風格はリアリズムであるが、ロマン主義的抒情に富み、ストーリーの組み立てに注意を払いつつ物語を叙述するが、心理描写も比較的重視する。

「タブー」は避けられない

我が国の建国以来の文学作品のなかでは、人間性の多くの基本要素、つまり本能とか欲望とか言ったものは、完全に避けられている。「左」傾思想と階級闘争の拡大化の長い影響のもとでは、どの作品も僅かにこの問題に触れただけで、ひどい場合「色情的」というレッテルをかぶせられ、軽い場合でも、「趣味が低級」だの「格調が高くない」だのといわれる。

私自身このような「文学的修道女」のような観点をずっと持っていた。鄭万隆や中傑英は私を「清潔模範」とからかったりしたものである。私の倫理道徳題材領域の探求が次第に深まってくると、私はますますこのタブーが避けられないものだと気付くようになった。その他の生活領域(例えば軍事、工業、改革など)を描くことによって、この問題を回避することはできる。しかし私達のように倫理道徳、愛情、結婚を主に描く作家であれば、いつも「回避」の方法をとっていると、血も肉もある立体的な生きた人間を描くことも、人物の秘められた内心世界に探りをいれることも難しいし、作品が刷新や突破をすることも難しい。

……私のことを理解できない人は、私の道徳的理想がぐらついているとか、私が流行を追いかけていると、思うかもしれない。しかしこれは私の体系のなかのレールが一つ大きくカーブしただけのことなのだ。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作品集・単行本

『傾斜的閣楼』中短篇小説集 青年出版社 1984
『東方女性』中短篇小説集 人民文学出版社 1985

主な作品

「計画、計画」戯曲 『天津演唱』1979.11
「婚礼」戯曲 『劇本』増刊2集 1979
「開市大吉」短篇小説 『新港』1980.11
「金鹿儿」短篇小説 『新港』1981.4
「明姑娘」短篇小説 『青年文学』1982.1

邦訳

「女店員」(金鹿儿)『九番目の売店』人民中国雑誌社
「白衣の天使」(白衣仙女)『六月の話題』NGS1989.6

作成:青野繁治

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