蒋濮小伝:
1949年安徽省に生れ、上海で育つ。父親は蒋孔陽(1923-)で、当時上海海光図書館に勤務していた。母親の濮之珍は中央大学中文系(後の南京大学)の大学院生であった。両親ともに1951年から復旦大学で教鞭をとることになった。蒋濮の文学的素養はこの両親の家庭教育大であると思われるが、その作品には文化大革命中に一家が受けた迫害も影響を与えている。
1962年優秀な成績で復興中学の入試にパス。キュリー夫人にあこがれ、「女の子の知力は男の子に劣る」という世俗の偏見に反発した。このころ両親の本棚にあった『紅楼夢』『儒林外史』『アンナ・カレーニナ』『ゴリオ爺さん』などの名著を読んで、週末や休暇を過ごした。
1966年文化大革命が始まり、形象思惟論によって批判を受けていた父親は「牛小屋」に閉じ込められ、その後、両親とも宝山に労働改造に送られる。70年代に入っても更に「隔離審査」を受けさせられ、蒋濮も両親の「悪事(原文:問題)」を告発しろと「造反派」に脅迫される。妹の蒋年は安徽省に下放し、一家はバラバラになってしまう。
1970年の秋、蒋濮は安徽省蕪湖県黒沙河の農村の生産隊に下放。農民の家で農作業に従事する。3年後県城の「五・七」学校に転属になり英語を教えたが、まもなく人民公社の工場に移り労働に従事。
大学入試制度復活後、安徽大学生物系に入学、1983年には生物学でマスターの学位を取得した。その頃結婚。大学院修了後、上海大学文学院図書館系で一般生物学を教える。
処女作は1980年の「迷失」であるが、同年の「水泡子」で名を成した。82年の初めに中篇「温暖的五月夜」を発表。85年初めに中篇コンクール受賞作であり代表作でもある「極楽門」と中篇佳作「死神手里拿的是迎春花」を発表。
1985年に日本に留学。1988年に中篇「不要問我従ロ那里来」を発表。
(『中国当代青年女作家評傳』中国婦女出版社1990.6から要約)
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