謝冰瑩

謝冰瑩
Xiè Bīngyíng
しゃ・ひょうえい

(1906~2000) 

 小伝

 謝冰瑩、女、幼名鳳英、学名謝鳴岡、又の名を謝彬、筆名は閒事、微波、蘭如、無畏、碧雲など。貫籍は湖南新化、1906年10月22日(農暦9月5日)生まれ。1948年9月台湾へ。2000年1月5日死去。享年94歳。

 北平師範大学(1931年に北平師範大学と統合、今の北京師範大学)国文系の卒業。1926年武漢中央軍事政治学校(今黄埔軍校武漢分校)第六期生、翌年北伐に参加、1931年から35年まで2度日本へ行き、西洋文学の研究を行なう。1937年中日戦争勃発後、「湖南婦女戦地服務団」を結成、前線に赴き奉仕活動をした。戦時の『広西婦女』や『黄河』などの雑誌を編集し、戦後は漢口『和平日報』および『華中日報』副刊の主編をつとめた。中国文藝協会の初代理事、台湾省婦女写作協会幹事、米国華文文藝界協会名誉会長、米国国際孔子基金会顧問を歴任。西北師範学院、華北文化学院、台湾省立師範学院(今の台湾師範大学)で教鞭を執り、マレーシア、フィリピンにも講学に行き、中国文藝協会文藝奨、韓国慶熙大学文学奨章等を受賞。

 謝冰瑩の創作は、伝記、散文、小説が主体で、論述文、児童文学、報道文学、仏教文学にも及び、その作品は、創作内容をもとに、だいたい前、中、後期の三段階に分けられる。前期は1929年に出版された『従軍日記』に始まり、1948年の台湾移住までに、戦地に関わる伝記や報道文学、散文を主体に、戦地の前線における見聞を描くことに力を注いでいる。また出あった人物を主人公として、大きな社会背景のもとでの様々な人物の真実の経歴を叙述している。『女兵自伝』はこの段階の代表作で、虚飾を加えない真に迫る筆致で、自分の成長と求学、従軍など20年余りの経歴を叙述している。作品全体には濃厚な時代的色彩が備わっており、個人の自叙伝というに留まらず、当時の女性の従軍における自我意識と旧社会及び戦時期における各種社会問題や現象を反映している。蘇雪林は「この三十万字の大著は、一個人の伝記であるに留まらず、中国のこの半世紀以来の奮闘しの写真である」とこの本を形容している。中期は1948年からで、台湾省立師範学院時期である。創作の主題は懐郷ノスタルジアが主で、字間には故郷を思う情感が色濃くにじみ出ている。「愛晩亭」「故郷」などである。この頃謝冰瑩は一系列の児童文学の創作を開始した。「愛的故事」「小冬流浪記」などである。創作以外に、謝冰瑩は文学の伝播を自ら任務とし、「新文藝写作」課程を開設、白話文写作課程の流儀を開いた。後期は1973年の教職引退から後で、アメリカに移住後の期間である。前述の創作題材を継続したほか、晩年は仏教故事を改作したり、仏教に関連する文章を執筆し、仏教思想を掲げた。「観音蓮」「新生集」などがある。

 謝冰瑩の生涯は紆余曲折があり、度重なる難関に直面したが、運命に屈服することなく、伝統的な礼教の束縛や戦争と言う動乱の年代において、自由を熱愛し、人権を尊重し、勇敢に自分の人生を選び取り、終始「直」「真」「誠」という三つの処世原則を守り続けた。生活経験の豊富さによって、創作の題材やインスピレーションも豊かとなり、他の50年代女性作家が美文的風格をもっているのとは異なり、独自の芸術的特徴を打ち立てた。創作を熱愛する彼女は、晩年眼病や足の怪我という苦しみを味わったが、創作の筆は衰えず、著作の数も極めて多い。謝冰瑩は剛直にして飾らず、真摯で細やかな風格をもって、筆下に尽きることのない熱い思いと頑強な精神を伝えている。馮馮が言うように「謝教授の文章は、平淡素朴のなかに、無限の力と民族的な熱い感情を擁しており、その文章は時間の影響を受けない。抗戦時代に書かれた物語は、今日の読者にもやはり新鮮である。それは永遠の光明の灯火である。」

(『謝冰瑩 台湾現当代作家研究資料彙編』54 2014.12)

 作品
研究資料 
(『謝冰瑩 台湾現当代作家研究資料彙編』54 2014.12
作成:青野繁治

Chinese Literature Site

error: Content is protected !!