蹇先艾

Jiǎn Xiān’ài
蹇先艾
けん・せんがい

(1906.9.12~1994.10.26)

蹇先艾自伝

 私の出身は貴州遵義であるが、四川人と言ってもよい。1906年(清光緒32年)9月12日四川越隽県に生まれる。父はそこで小役人をしていた。母から聞いた話では、私たちの原籍は巴県で、民末に張献忠が兵をあげ、四川に迫ろうとしていたとき、官軍側は彼が人を殺しまくって、犬も残さないというデマを流したので、私たちの祖先が恐れて、巴県から600華里離れた遵義に転居した、ということである。遵義はもともと四川に属し、雍正初年に貴州に組みいれられた。私は遵義で何年か私塾に通った。
 1920年に北京に来て、翌年の夏、北京師範大学付属中学に合格した。附属中学の主任は、解放後数年教育部副部長をつとめた林砺儒である。反帝半封建の偉大な五四運動の後で新思潮の波はとどめようもなかった時代である。附属中学の国文教師はほぼこの運動で進められた文化革命に心酔し、新文学を提唱し、旧文学に反対した。陳独秀、李大釗、魯迅、冰心、葉紹鈞、朱自清らの作品を教材に選び、青年たちに大きな啓発を与えた。私は同級の李健吾、朱大楠?枏?と学校内で新文学活動を始め、曦社を組織し、自費で不定期刊『爝火』(誌名は朱大楠がつけたもので、出典は『荘子』逍遙游の「日月出矣,而爝火不息」である)を二期出したが、我々の習作はレベルが低く、執筆者は無名の兵卒であったので、売れ行きは芳しくなく、印刷費が問題となり、やむなく停刊した。その後購読者の少ない『国風日報』の副刊として『爝火旬報』を出したかが、まもなく新聞とともに夭折することとなった。そこで孫伏園の編集する『晨報』副刊や王統照主編の『文学旬刊』に投稿し、原稿は大半採用された。新文学の影響を拡大するために、学校に魯迅、王統照、徐志摩などの先輩作家を招いて講演してもらい、学内の教員、学生から歓迎され、本の虫を要請する学校の雰囲気を大いに改変した。1925年に上海で五三〇事件が起きると、我々学生は愛国運動に参加し、街頭宣伝を行なった。翌年王統照の紹介で私と李健吾は文学研究会に加入した。1926年、北新書局から私の最初の短篇小説および散文の習作集『朝霧』が出版された。
 同年夏、私は北平大学法学院に入学、経済学を学んだ。教授たちが講義する資本主義的しろものについては興味がなく、授業を聴きに行くことは少なく、一日図書館に潜り込んで文学書を読んでいた。試験期間は一夜づけでしのいだ。そのころは北洋軍閥が中国を統治しており、政治は一面の暗黒で、文化領域では復古的残り火が再燃し、白話文に反対し、詩経を読み孔子を尊重することを主張する妖風が巻き起こっていた。私は『晨報副刊』や『京報副刊』に原稿を書く以外に、『晨報詩刊』に参加して詩作を学び、新詩を書いて、心の苦悶を吐き出したが、相当に低調であった。『東方雑誌』や『小説月報』に続けざまに小説や新詩を数編発表し、両誌の編集者胡愈之、鄭振鐸、葉紹鈞の励ましを受けた。1930年、北新書局から第二短篇小説集『一位英雄』が出版された。
 大学卒業後、私は北京の松坡図書館に就職、弘達学院で数時間国文も教え、勤務時間外に創作に従事した。読書に便利だったので、この機会に少なからず古今東西の名著を読んだ。チャンスがあれば、文芸界の先輩に教えを請い、年齢が近いが、盛んに創作につとめている若い作家と知り合って、互いに学びあい、創作にたいする興味と勇気を増大させた。30年代には私は詩を書いていた時期の激情を失って、短篇小説と散文だけを書き、大部分は『文学』、『文学季刊』、『水星』、『文季月刊』、『作家』、『中流』や『大公報』の文学副刊に掲載された。1931年から1937年にかけて、短篇小説集五部(『還郷集』中華書局、『躊躇集』良友図書公司、『酒家』新中国書局、『郷間的悲劇』商務印書館、『塩的故事』文化生活出版社)、散文集一冊(『城下集』開明書店)が出版された。さらに友人と共同で、『美国短篇小説集』(生活書店)を翻訳した。抗日戦争時期には、短篇小説集『幸福』(福建改進出版社)、散文『離散集』(今日文藝社)と雑文集『郷談集』(文通書局)を出版している。抗日戦争後には中篇小説『古城児女』を上海万葉書店が出版している。(中略)
 1937年、盧溝橋事件が起こると、貴州に戻り、貴陽で謝六逸、李青崖、斉同、張夢麟らと抗日宣伝中心の『毎週文藝』(『貴州新報』副刊)を編集したが、1939年2月4日には、日本の戦闘機が貴陽を爆撃したときにすべて灰燼に帰した。その後は旧『貴州日報』の副刊『新塁』を一年余り編集した。中華文芸界抗敵協会が成立すると、私は理事の一人に選ばれた。1939年から1944年にかけて、王魯彦の編集する『文藝雑誌』、熊佛西主編の『文学創作』及び『当代文藝』に短篇小説を書いた。抗日戦争開始から1949年まで、私は教師をして生活を維持し、遵義師範学校校長や貴州大学、貴陽師範学院中文系教授などをつとめた。
 新中国成立後、渇きをいやすようにマルクス・レーニンおよび毛沢東主席の著作を初歩的に学習した。1951年の冬、貴州辺縁地区の農村に下り、一年近く土地改革の仕事に参加した。その後農村には互助組が成立し、続いて農業合作化、さらに人民公社化を行うなど、毎年3、4か月は農村で下放生活を送った。
 この時期、西南文聯常務委員、作家協会重慶分会副主席、貴州省文化局局長、貴州省文聯主席、作家協会貴州分会主席、第三次全国人民代表大会代表、第一回から第四回までの貴州省人民代表、三、四期貴州省人民委員会委員、各回貴州省政治協商委員、第四期貴州省政治協商会議副主席、貴州省文聯主席、作家協会貴州分会主席を歴任した。
 解放後出版した本は、『山城集』(作家出版社)、『倔强的女人』(新文藝出版社)、散文集『新芽集』(作家出版社)、『苗岭州』(上海文藝出版社)がある。
 文化大革命以来、林彪、「四人組」の残酷な迫害を長期にわたって受け、二度の家宅捜索により、蔵書がほとんど失われた。なかには出版した十数部の作品集も含まれている。出版前の原稿も大毒草として没収された。11年にわたり筆を擱き、長期にわたって生活を離脱し、思想に硬直化が見られるだけでなく、筆も滑らかでなくなった。「四人組」の打倒は、多くの文芸工作者にとって、第二の解放であった。1978年、私は再び筆を執り、70を超える年齢でも、命ある限り、継続して、マルクス主義、毛沢東思想を学び、労農兵の闘争生活に深く入り、全国人民の社会主義現代化を実現する新たな長征において、微力を尽くし貢献したいと考えている。
 解放前後、作品を発表するとき私が用いたペンネームは、蕭然、銭九、羅輝、陳艾新、蕩生、趙休寧である。

(『中国当代文学研究資料 蹇先艾 廖公弦研究合集』貴州人民出版社 1985)

著書
 
研究資料

『中国当代文学研究資料 蹇先艾 廖公弦研究合集』貴州人民出版社 1985.8

作成:青野繁治

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