邵燕祥

Shào Yànxiáng
邵燕祥
しょう・えんしょう

(1933- )

邵燕祥自伝:

 1933年6月10日当時北平と呼ばれていた北京で、あるサラリーマンの家庭に生まれる。第二次世界大戦が終結したあの夏、私は十二才で、小学校から中学校へ入学した。
 私の処女作は1946年4月に新聞紙上に発表された一遍の雑感文である《由口舌説起》であった。
 その時以来、私は国民党政府に反対する学生運動に参加していた時で、雑感文や、詩歌、散文式の小説を書いていた。
 1949年の初めに、北京は開放された。私は一年で大学をやめ、北京放送局で働きはじめた。
 私の第一作目の詩集は《歌唱北京城》で、第二作目の詩集は《到遠方去》である。私が50年代 初期に書いた抒情詩を収め、其の中で、若い同一世代の理想と激情を表現した。また、個性的色彩をもった詩であった。私は読者と最初の声誉を得たのだった。
 しかし、間もなく私の詩と雑感文は、上公正と反民主の社会現象触れていたために、私は批判と対立を受ける事となった。1978年に至るまで、私は二十年もの間作品を発表する権利を剥奪されたままだった。その間、1962年の春に少しその情勢が緩やかになっていた。一遍の脚本を書くことにより、数首の詩と一遍の小説を発表することとなった。その秋には、またも”階級闘争”が強まってきた。その脚本は親子の情について書いたものであって、階級闘争に触れたものではないのだが、公開批判にあったのだった。
 私は1979年に政治吊誉を回復した。1980年から1986年まで、《献給歴史的情歌》、《在遠方》、《如花怒放》、《遅開的花》、《邵燕祥叙情長編詩集》など八作の詩集と詩撰、《贈給十八才的詩人》、《農昏随筆》の詩評集、《蜜和刺》、《憂楽百篇》の雑感文集を出版した。
 私が書く詩は、50年代の剛健清新、豪放爽快から、厳格辛辣の70、80年代まで、思想の傾向と技術の追求の叙情長編詩の中に集中して反映させた。辛酸をなめた民族と同じ運命の私は、自己の経験と、覚醒、快楽憂愁を書き表した。
 私は1980年前後に《切上可巴望好皇帝》等の雑感文を発表しはじめた。大量の雑感文を書き、公民の民主意識を歓呼史、社会の弊病を批評した。
 私は1979-1984年の《詩刊》の編集作業の責任者となった間、優れた才能を持った青年を見出すために、粘り強く努力をした。それゆえ、非難と圧力を受けることすら決してかまうことはなかった。
 私は1956年に中国作家協会に加入した。1979年と1985年頃に理事会理事と主席団委員に選ばれた。1982年に中国筆会中心の会員として受け入れられた。
 三十年の間に、私はソビエト、ユーゴスラビア、アメリカを訪問した。(アイオワ大学の『国際書作計画』に参加した。)

詩の魅力はどこにあるのだろうか?

 叙情詩は、ほとばしる感情の産物であり、思弁の産物ではない。
 叙情詩の中の思想は燃え付く様なものであり、感情化した思想であるべきだ。
 叙情詩は、愛情の傾く所であり、興の至る所である。そして、それは強制して無理矢理にでてくるものではく、一定の規格や形式によって大量に発注され、大量に生産できるものではない。
 詩を作るために詩を作ると、詩の偽物を作ったことになる。このような作者は、詩人とは呼べない。ただ、詩の職人である。
 こんにちの叙情詩人は我々の前人が書けなかった詩を書き出さないといけない。現代の叙情詩は、総じて現代詩史、私達現代人の感情の歴史になるのである。
 一首の叙情詩ごとに、一つの独創があるべきだ。新しいものを提供し、その上、過去と現在の他の詩人と違えて、作者の自分の作品とも違っていないといけないのだ。
 真の詩人とは、前人とも他人とも、そして自分自身とも重なることはない。
 叙情詩はすべて新しい視角と、新しい感銘と、新しい境地を要求去れる。
 新しく出てくるものは貢献である。私達の時代の豊富で多彩な要求は詩の中に豊富で多彩な表現を獲得した。
 叙情詩は虚実の結合でないといけない。虚が過ぎては推測できない。実が過ぎては無味乾燥になる。
 叙情詩は生活を反映するもの出会って、撮影するものではない。それは映画の効果音であり、絵画の題吊でもある。しかし、生活のくどく、平凡な注釈であってはならない。
 抒情詩は生活に関する発言である。それは、舞台劇におけるダイアログや、モノローグ、脇台詞であり、性格の衝突と内心の衝突の表現の台詞である。しかし、粗筋や、背景セットの紹介ではないのだ。
 抒情詩は自分に書いたものもあり、友達にかいたものもあり、会ったこともない数千万の読者にかいたものもある。
 このような大衆に向かってかいた抒情詩は、自分にたいして書いたもののようでもあり、愛する者へ書いた真実の誠意のようでもある。
 自分や、友達に詩を書くだけで、他人に対しても意義を持つのである。それは発表するに値し、大衆の理解まで獲得するのだ。
 多くの読者の理解と共感を獲得するには、芸術上“深入浅出”を心掛け、“浅入深出”を避けねばならない。
 良い抒情詩人というのは、人民に忠実であり、生活に忠実であり、芸術に忠実である。彼の詩は、彼の心臓を通じて流れ出た人民の血であり、人民が彼の詩の言葉から自分の心とを同時にわきたたせる音として捉えるのである。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作品目録

《献給歴史的情歌》  1980年時人民文学出版社出版
《含笑向七十年代告別》  1981

 
作成:渡部孝義

Chinese Literature Site

error: Content is protected !!