鄭文光

Zhèng Wénguāng
鄭文光
てい・ぶんこう

(1929 – 2003)

鄭文光自伝:

 私は1929年4月9日、越南海防市の一職員の家庭に生まれた。原籍は広東省中山県である。ベトナムの華僑学校で、祖国の言語と文字を学んだ。中学に通っていたとき、家運が衰退し、私はやむを得ず印刷所の見習いと小学校の代用教員をしながら、勉強した。幸い葉作仁という良い先生と出会い、この先生の指導で私はたくさんの古典小説や文芸作品を読んだのである。魯迅が翻訳した「桃色の雲」や「小さなピーター」といった作品の中で、私はとりわけ盲目詩人の春娘やモグラの世界に陶酔し、文芸に対して、深い思いを抱くようになった。14才のときには、当地の華僑新聞に、最初の雑文である「孔尚仁と『桃花扇』」を発表している。1946年高級中学を卒業すると、友人と共同で、『越北生活』という雑誌を発行した。私には本当の幼年時代はなかったと言える。私は幼年期を過ごすべき時期に、早熟にも厳しい現実と立ち向かわなければならなかったのである。

 1947年、私は祖国に戻った。大学に行く学資をかせぐために、広東郁南県師範学校で教え、数ヶ月後に中山大学の入学試験にパスすると、挑戦的性格の強い学問だと私が考えた天文学を学ぶことになった。

 1949年、卒業の後香港へ行き、香港培僑中学で教鞭をとるとともに、香港の『新少年』誌の編集長を勤めた。「鄭越」のペンネームで『大公報』『文匯報』に雑文、詩歌及び科学知識普及のための文章を発表した。

 1951年、北京に移り、中国科普協会で働く。1956年『科学大衆』誌の副編集長。この頃、天文学上の謎と文学的な詩を結びつけ、初めての科学幻想小説『地球から火星へ』(従地球到火星)を書いた。

 1956年、中国作家協会加入。1957年、専業文学創作に従事、『文藝報』『新観察』雑誌の記者となり、「夜漁記」「潜水英雄」などの通信文や報告文学を少なからず書く。この頃、英語とロシア語を独学し、ソ連の「宇宙」などの作品を翻訳した。

 1964年、私は鉄鋼の都鞍山市の文聯に転属。「文化大革命」中に手稿は焼けてしまった。

 「四人組」失脚後、私は蘇った人間のように、再び創作を始めた。1976年10月から1983年4月までに、16部、計150万字の中、短篇SF小説を発表。中国作家協会児童文学委員会委員、作家協会北京分会理事、中国科普創作協会理事兼科学文芸委員会副主任を務めた。

 現在、中国科学院北京天文台副研究員であり、天文史の研究に従事している。著作に「カントの星雲説の哲学的意義」「中国の歴史上の宇宙理論」(席澤宗との共著)「中国天文学の源流」(1980年に科学院から科学研究二等賞に選ばれる)がある。

 1983年4月より脳血栓を患い、現在でも、筆を握って文字を書くことができない。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作品集・単行本

『海姑娘』科普出版社1979
『飛向人馬座』人民文学出版社1979
『古廟奇人』香港昭明出版社1981
『神翼』湖南少年児童出版社1982
『鄭文光作品選』広東人民出版社1983
『戦神的後裔』花城出版社1984
『怪獣』天津新蕾出版社1984

 
邦訳

『中国科学幻想小説事始』池上正治/訳 イザラ書房 1990.3.31/定価2060円(本体価格2000円)

作成:青野繁治

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