陶晶孫

Táo Jīngsūn
陶晶孫
とう・しょうそん

(1897-1952)

陶晶孫小伝:

 現代の作家。本名は陶熾あるいは陶熾孫といい、ペンネームが晶明館主、晶孫である。江蘇無錫の人。
 1919年、日本の九州帝国大学で医学を学んだ。
 1921年、郭沫若、郁達夫、成仿吾などと創造社を組織結成した。1923年東北帝国大学に入学し、音響生理学の研究を行った。『創造季刊』、『創造月報』などの刊行物に小説、演劇台本および翻訳を発表している。
 1929年、革命劇団藝術劇社に加入、「揺籃歌」を執筆した。
 1930年、中国左翼作家聯盟に参加。『大衆文藝』、『学藝』などの雑誌を編集した。
 30年代以降は、主に医学の教育及び研究に従事した。無錫で厚生医院を創立している。上海東南医学院教授、上海自然科学研究所研究員、『現代医学』誌編集長、台湾大学医学院教授兼熱帯病医学研究所所長などを歴任した。
 新中国成立後、病気を理由に台湾を離れ、日本に渡ってのちも病気のため滞在を続ける。
 1950年、日本東京大学中国文学科の講師をつとめたが、1952年癌のため死去、市川共同墓地に葬られた。
 主な著作に、小説集『木犀』(1926)、『音楽会小曲』(1927)、『盲目的兄弟愛』(1930)、『牛骨集』(1943)、演劇台本集『傻子的治療』(1930)、翻訳『間諜』と『晶孫日文集』(1944)、随筆『給日本的遺書』(日本語、1953年)、さらに『晶孫全集』(1941-1944)がある。このほか、医学の専門書も多数執筆している。(鄒永旺)

(『中国文学大辞典』第7巻 天津人民出版社 1991.10)

参考

 ディアスポラとしての言語体験は、陶晶孫に「国語による文学/文学による国語」という、中国新文学を支配してきたパラダイムを相対化する視座を与えたのみならず、時に人間の本源的な体験をも疎外しかねない「エクリチュール」を相対化するラディカリズムに彼を誘った。本章で考察してきたように、彼が中国現代文学史の叙述から排除されたには理由がない訳ではなかった。モダニティをイデオロギー基礎とする文学史という制度は、そもそも彼が体現した類のラディカリズムと異質性を排除することによって成立しているのだから。もしも現在、複数の国民国家から組成されているモダンな世界及びそれを支える原理=モダニティが、その排他性や抑圧性故に厳しい質疑と批判に曝されているとするなら、モダンの秩序から排除され、国家を含む如何なる共同体にも帰属しないディアスポラの存在自体、真の意味における価値の多元化の象徴となるであろう。それこそが、陶晶孫その人及び彼の文学的営為の体現している先鋭的な今日性の所在であると、私は考えるものである。

坂井洋史『逸脱と啓示 中国現代作家研究』汲古書院 2012.12

『傻子的治療』
『楓林橋日記』
『陶晶孫代表作』
 参考書

『日中友好のいしずえ―草野心平・陶晶孫と日中戦争下の文化交流』佐藤竜一著 日本地域社会研究所 1999.6

作成:青野繁治

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