韓靄麗

Hán Ǎilì
韓靄麗
かん・あいれい

(1937- )

韓靄麗自伝:

 私は1937年12月11日上海に生まれた。ちょうど「七七」事変(芦溝橋事件)のあと、日本軍が中国の領土を大幅に侵略・占拠していた頃に当たる。戦乱に生まれ、憂患のなかで育つ、というが、生まれた途端に亡国の民となったのである。そこから生まれた私の民族意識と愛国心は強烈なものであった。今でも1945年8月のある夜半、徹夜で止め処もなく抗戦勝利を祝う爆竹が鳴っていたのを今でも忘れることができない。

 私の祖籍は江蘇省丹陽県であるが、私はそこには全く印象がない。韓家は読書人の家柄であるらしく、祖先には二人挙人が出たらしいが、私の祖父の代で落ちぶれてしまった。父は20歳にならないうちに上海に働きに出て、中華書局の職員の試験にパスした。母は独身時代は、上海で刺繍工場の女工をしていた。春節になると、急ぎで芝居の衣装の刺繍をしなければならなかった。新年の一日まで働いて夜が明けてから、ようやく給料をもらって家に戻るのだった。

 私は上海の生活小学校に通った。1947年以後は、父の転勤にともない、南京や蕪湖に行った。1953年になってようやく上海に戻り、上海市の上海中学で高級中学まで行った。

 父が肺病になって、19年間勤めた中華書局を辞めざるを得なくなってからは、我が家の経済状況は、よかったり悪かったりで、生活も上安定であった。高級中学を卒業しても大学に行ける状態ではなかった。しかし私はがんばって北京大学中文系に合格した。それからは独立の生活が始まった。

 1961年大学を卒業すると、北京の北方昆曲劇院藝術室の配属となった。最初は資料室で働き、それから劇の台本の執筆をすることになった。『飛奪濾定橋』『悔不該』などは北京の舞台で上演したことがある。

 1965年北京市作家協会勤務となった。翌年「歴史に前例のない」「文化大革命」が始まった。私は中国の絶対多数の知識人同様、苦しめられた。十年がたち、私は健康を害して、もう少しで一命を落とすところだった。年齢は40を過ぎていたが、何も達成できずにいた。

 1974年魯迅博物館陳列部に配属となり、今日までここで働いている。

 1979年、文学創作の活動を始め、1983年に中国作家協会に加入している。

昔の夢

 16、7歳のころ、作家になることを夢想した。

 年齢を重ね、経験が増え、環境が変ると、私は話すときは矩を越えてはならないこと、文章をもてあそべば災いを招くことを知った。大海原で水に苦労して夢想をやめた。

信じがたいことだが、完全に自分の夢を放棄してから、「文化大革命」のなかで、たった一文字、一文章、一冊の本のために家が壊れ、人が死んだ時代に、私に筆をとって書きたいという衝動が再び芽生えていたのである。

そのころ私は紙に一字も書かない習慣を身につけていたが、一枚だけ今や黄ばんでしまった紙片を残している。そこには一見奇妙な字句が並んでいた。

チェコはどこにあるのか?
煙突の上の人
6寸と6寸半
儀式
本の暗流
西洋料理を食べる若者
トイレの中の字と紙
小部屋のなかの二年

迷信
走馬灯
世界地図

 これが暗黒の時代に、私が生活の素材を記録していたノートであるとは誰が想像できただろう?この上連続の字句にどれほど沢山の物語が含まれているか、誰にも想像できなかったにちがいない。

 1966年だったか1967年だったかの夏、早朝から新街口北大街は黒山の人だかりで、交通はそのために渋滞していた。人々のまなざしと指差す方向に、私が眼をやると、道の東30メートルの高さの煙突の上に一人の男が座っていた。白いシャツ、灰色のズボンで、背を丸くし頭を垂れ大通りに背を向けてまんじりとも動かない。まるで生きている人間には見えなかった。通りは異常に賑やかで、道路の両側に百千もの人が立っていた。老人も青年もそれから子供を抱いた女性も。何事もないかのように談笑するものもいたし、黙々とだまりつづけているものもいた。漠然と眼を見開いているもの、大声で「外国人に見られたらどんな影響があるか」考えない「くそ反革命」を罵るものもいた。少なからぬ人が並んで歩道に座り込んだ。彼等は待っていた、首を長くして待っていたのだ。何を?煙突の上の「反革命《が跳びおりるのを待っていた。私は足早に立ち去った。後から聞いた話では、この自殺志願者は朝5時に管理人の隙をついてよじ登り、午前10時に皆が見ているまえで跳びおりたという。それ以来、この煙突の上にうずくまり、宙ぶらりんになって、青い空に貼りつけられたように見えた灰色の人影が、どうしても私の脳裏を離れなくなった。こんなに年月が経つというのに、毎回この通りをとおり、あの煙突を見ると、いまだに私はおだやかではいられない。私はその人影の吊前も経歴も知らない。ただ高いところで、たった一人で5時間も死神と顔を見合わせていたのだということだけがわかっている。この5時間の間に彼は何を考えたのか?どんなことを考えてここまでやってきたのか?私にはその煙突の下にびっしりとつめかけていた人々を一層忘れられない。何故あんなに多くの人々が、まるで騒ぎやサーカスや縁日を見るように、自分たちと同じ血と肉でできた体をもった人間、自分たちと同じように妻も子も親もある1人の人間が、破滅しようとしているのを見ていられたのか。何かがわたしの心にかじりついて、いつどこでも、私は自分の感じたことをうまく話すことができない。しかし私は密かに誓ったのだ。いつか、できるなら、私はこのすべてを文字に書き付けようと。

 おそらく70年代のことだ。私は1人で北京に住んでいたが、また発病して、しかたなく従姉の2人の子供といっしょに身を寄せ合った。彼女たちの両親は幹部学校に閉じ込められて何年もたっていた。ある日、江西から帰ってきた同僚が子供を見舞ってくれた。ずっと声を立てずに大人たちの話を聞いていた姪が大声で口を挟んで「わたしのパパは反革命じゃないわ」と叫んだ。彼女は「文化大革命」の年に生まれたので、やっと5歳になったばかりだった。私はいやな気分になって話題をそらし、「ねぇ、お父さんのこと覚えてる?」ときいた。子供は考えて小さな声で「覚えてない」と言った。それから突然なにかを思い出したように、笑って叫んだ。「思い出した。お父ちゃんは白いシャツを着て、灰色のズボンはいてた。」彼女にとって父親は単なる白いシャツと灰色のズボンでしかなかった。私は顔を背けた。子供に涙を見せたくなかったのである。その後、幹部学校に父親の面会に行くことを許されたとき、彼女はじっと母親の後ろに隠れて、どうしても見知らぬ人を「パパ」と呼ぼうとしなかった。その一部始終を私は忘れられなかった。ただその時その場所で、私はいつか必ずこの苦い涙を描く日が来るに違いないと考えるばかりだった。

 「階級隊列の整頓」をしたとき、同じ長屋の女性が1人首をつった。男の子と女の子が1人ずつ遺された。父親はまだ「牛小屋」につながれていた。2人の子供が梁に吊り下がった母親の遺体を降ろしたのであったが、人を呼びに出てくる勇気がなかった。長屋の人々はたいてい子供を上憫に思い、母親のむごさを責めたが、首を吊る前に頭全体をスカーフにくるんでいたのは、恐らく子供をおびえさせないためだったのだろう。またこの女性が捨てたタバコの吸い殻と灰が床の上に丸く連なっていたという。死ぬ前に彼女が熟睡している子供のかたわらを何度ぐるぐるとまわったか、誰にも計り知れない。……それから1ヶ月後、私はもともといつも中庭で遊んでいた死者の娘を見かけた。私は最初その子だとわからなかった。もともと奇麗な顔立ちのこの娘が、なんとひどい変わりようであったことか。顔からは軟らかな線が消え、大きな眼は冷ややかで空洞のようになり、母親の遺した朊を着ていたが、やや長くて袖やすそを引き摺り、襟はだらんと垂れたままになっていた。……そのときその場で私は彼女にやさしい言葉をかけてやりたいと思ったが、言えなかった。しかしきっといつか、私はペンでこの子の顔を描き出さねばならない、と思ったのだ。

 その黄ばんだ紙には、そのような物語がたくさんこめられていた。おかげで私はひどい神経症にかかり、それから続いて癌になった。……幸運にも私は理性を失わず、命も助かった。悪夢から覚めた私は、ペンをとり小説を書き始めたのだった。

 私の最初の小説「湮没」が、1979年『北京文藝』の「新人新作」欄に発表されたとき、私は既に42歳であった。作家に対する月桂冠の夢想は、とうに18歳の夢幻とともに消えてしまって取り戻すことはできない。おびえと動揺が時ならず心に押し寄せる。ペンを執る手はしばしば軟弱に力を失う。文学の道の先は分かれ道である。自分でもどうして今でもまだあちこちにぶつかって、歩いたり立ち止まったりしているのかわからない。

一人の人間は取るに足りない存在だ。私の少ない文章も含めて。しかし疑いのないことは、沢山の人が、沢山のペンをもって、真の知と良心をもって書き続ければ、我々の賛美は大きな声となって響き、我々の呪詛はきっと世の中に鳴り響く。文学の力は必然的に時間を超越し、空間をも超越する……

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作品集・単行本

『湮没』短篇小説集 北京出版社 1985

 
 作成:青野繁治

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