Féng Língzhí
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(1939- ) |
馮苓植小伝山西省代県の、抗日戦争中おちぶれた“読書人の家柄”の家庭に生まれる。幼い頃、祖父や父母に連れられて綏遠、山西、陝西、四川などの地を点々と避難した。 抗日戦争勝利の後、北京に住居を定める。家庭はすでにことごとく破産し九歳のころから学校のあいまに新聞売りをしていた。十歳のとき新中国が成立し、ほどなく祖父が綏遠文史館に配属されたので祖父とともに内モンゴルに赴いた。十四歳でフフホト市の第一師範短期師範クラスを卒業し、フフホトの小学校の教師の職についた。授業の合間に習作を始め、教師の研修学校で勉強した。十七歳で内モンゴルの師範大学中文系に入り、卒業後バエンナルノー草原に配属され、教師となった。父が右派のレッテ ルを 貼られ、労働改造させられたため、配属後ほどなく下放され辺鄙で遠い騰格里(トンゴリ)大砂漠のなかで労働鍛練をし、数年間ゴビの荒原でラクダの群れについてさまよい歩いたため、ほとんど人間的な思考や言葉を失いかけていた。のちに偶然の縁で、バエンナルノーの歌舞団での創作活動の仕事に派遣されたが、やはり果てしないゴビの草原をさまよっていた。ほどなく史上空前の「文化大革命」が始まり、真っ先に「革命」の対象にされ、十年もの間数々の苦しみを受けた。労働改造の合間に思考を練り始め、密かに、習作を続けていた。 1975年またもや偶然の縁で、人民文学出版社の編集員である王笠耘、謝明清の助けを得て、出版社で長編小説を書きはじめた。「四人組」が打ち負かされた後、長編小説≪阿力瑪斯の歌≫を出版する。それと同時に、中短編小説の探索をはじめた。 1982年に中国作家協会内モンゴル分会に派遣され、今に至るまでずっと創作の仕事に従事している。 作品は半分の“レリーフ”にすぎない聖人はかつて“三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る”と言った。私はというと、三十にして未だ立たず、四十にして惑い、五十になっても天命を知ることは到底できないであろう。私は、自分自身は“成長しない”作家の列に属すべきだと思っている。重要なのは自我を認識し、自我を見出し、自分自身に属す“隅”を探すことである。 私の創作した作品の多くは広々として果てしのないゴビ荒原を背景として、人、動物と大自然との間の哲理性の関係を探索するものである。私は荒れた砂漠から来て、複雑な現代文明社会と対面して驚きどうしてよいかわからなくなった。しかし私は大自然に帰るということはしなかった。私は考えるとき、ひょっとしたらこの単純な背景のなかに、複雑な人生の哲理をさらに整理し整えることができるのかもしれない。私は文章を書き、ある時は自分のためにだけ単純に思考することができる。ただしこれは思考が成功であることを証明しているのでは決してない。 この思考のプロセスのなかで、魯迅先生の作品はまさに私を創作の新しい歴程の中に歩み入れさせ、私の作品の中の人や動物はしだいに市井の中に歩み入り始めたようだ。中国はこのような古老で、文化の堆積はこのように深厚であり、社会が一歩づつ前進するのはこのように困難で、人の口頭でよく非難される時代の弊害をのぞいて、まさかさらに深い思考はいらないわけではあるまい。私はいつもこの種の感覚を書き表したいと思うが、力が及ばず、深い苦悩を残す以外には何もはっきりとは言えない。しかし私は思うのだ、たとえ苦悩を人にうつしてもそれはよいことである、と。 私は社会に対して文学の“教育”あるいは“堕落”作用を話すが、時には、疑惑を抱き、私は人々は自ら見分ける能力を有していると信じるのだ。ただしこの説明は、文学作品はこの列に属さないということである。私が文章を書くのはただ急いで人々に向けてある体験を傾述するのであり、もしその体験が異なった角度から共感をひきおこすことができるなら、私は大変満足である。現代文明はいまだ絶えず発展しており、文学もさらに発展すべきであり、わずかに事情や物語、人物および悪を勧め善を掲げるという主題だけで満足するのは、すでにはるかに十分でない。人々は思考すべきだ。 このため、私はつねに作家の作品はただ“半分”で、レリーフのようであり、残りの半分は読者によって完成されるべきだと思っている。ある人は、読者と作者がとが共同で一編の作品を完成させるのだと言った。当然この中には評論家の功績も含まれている。作者としては、ただ彼のある種の“感覚”を書き表せば十分である。当然作家は一定の芸術的魅力を有しておらねばならず、それでやっと読者を誘発して共同でこの一編の作品を完成できるのである。 現代の科学がハイスピードで発展している時代の中で、地上の人は宇宙ロケットの中の人と同じ様に一種の“無重力状態”の感覚を持っており、文学も当然この現象が起きるのを避けられない。しかし私は、このことはよいことだと思う。なぜなら非常に速い前進がなければ、この現象もなかったからだ。 創作は理論がなくてもだめだし、理論が多すぎるのもよくない、私は“無重力状態”で、私はわけがわからない・・・。 (『中国当代作家百人傳』求実出版社1989) |
作品リスト『阿力瑪斯之歌』長編小説 1977年 人民文学出版社出版 |
邦訳「王鳥の座 鳥は飼い主に似る」杉本達夫/訳 『季刊中国現代小説6-8』1988.7-1989.1 |
作成:黒田由美 |