Liú Nà ōu
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劉吶鴎小伝:本名は劉燦波、筆名に洛生、鴎外鴎などがある。台湾の台南の人。日本で育ち、東京の青山学院や慶応大学の文科で学んだという。1925年卒業後、上海の震旦大学に入り、杜衡、施蟄存らとフランス語特別クラスで学ぶ。1928年、第一線書店を創設、閉鎖処分を受けた後、翌年、水沫書店を創設。「マルクス主義文芸叢書」を出版、自らも『芸術社会学』や日本の新感覚派小説を訳す。また同書店から出版した『無軌列車』『新文藝』などの雑誌に、躍動するリズムとモダニズムの手法で都市の享楽を描いた小説「遊戯」「二人の時間の不感症者」などを書き、1930年には『都市風景線』にまとめた。『映画リズム簡論』のような論文も書いている。上海事変以後日本に渡り、1939年には汪精衛政府に身を投じた。同年、上海で同政府による『文匯報』を出版する仕事をしているときに、刺殺される。穆時英とともに新感覚派の代表作家と見なされている。 (『中国現代作家大辞典』新世界出版社 1992) |
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劉吶鷗の死 1940年9月初め、松崎啓次は、記録映画『珠江』製作の徒次立ち寄った芸術映画社の石本統吉監督と助監督の八名(やな)正(後に映画倫理規定審査員)を福州路の京華酒家に招いて、昼食をともにした。中華電影から劉吶鴎、黄天始・黄天佐兄弟が同席した。 (清水晶『上海租界映画私史』新潮社1995.11) |
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作品集・単行本 |
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邦訳作品「礼儀と衛生」さねとうけいしゅう/訳 『中国文学』 |
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参考文献『上海租界映画私史』清水晶/著 新潮社1995.11 |
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研究書・研究史料『海上説情慾 從張資平到劉吶鷗』彭小妍/著 中央研究院中國文哲研究所籌備處 2001.1 |
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作成:青野繁治 |