Jīn Yōng
|
(1924.3.10-2018.10.30 ) |
金庸小伝:金庸が新武侠小説界において、宗師的地位を有することは疑いない。彼の武侠小説は、発表以来、幾たびも大衆を傾倒させ、その名は内外に伝わった。身分を問わず、上は大統領、主席、学者から、車引き豆乳売りの輩にいたるまで、また地域の遠近東西南北を問わず、作品が出るごとに、競って伝え読み、その盛況たるや空前ともいうべきものであった。 金庸は1924年生まれ、本名は査(音はZha)、名前を良鏞という。浙江省海寧の人、祖籍は唐山である。金庸はペンネームであり、名前の鏞を二つに分解したのである。ほかにもペンネームは林歓、姚嘉衣、姚馥蘭などがある。故郷海寧で小学校教育を受けた。中学一年のときに抗日戦争が勃発した。高級中学の頃には、戦火はすでに野を焼き尽くす勢いであった。当時浙江北部の上海に隣接する杭州、嘉興、湖州などの一流中学では、連合高級中学が成立し、浙南の麗水へと移転し、金庸も学校の移転に随って、麗水で学んだ。金庸の大学教育は、当時の第二の首都重慶で完了した。 金庸が社会に入って、ついた最初の職業は、中央図書館の閲覧係の仕事だった。これは幼い頃から読書を愛した金庸にとっては、宝の山に入ったがごときもので、スコットの歴史小説『アイバンホー』を詳読し、大デュマの『モンテクリスト伯』などを英語とフランス語を対照しながら読んだ。平江不肖生の武侠小説も好んだ。これは彼が後に武侠小説を書くための種まきであった。 抗日戦争終結の後、金庸は故郷に戻り、まもなく杭州の『東南日報』で、取材記者をしたり、英語の国際放送の受信を担当したりした。その後、東呉大学に入学して「国際法」の研修を行った。ほどなく、彼は『大公報』の電気通信翻訳の試験を受け、採用された。1948年『大公報』香港版が復刊され、彼は香港に配属となった。仕事は依然国際電気通信の翻訳であった。『新晩報』が創刊されると、金庸はその副刊「下午茶座」(午後の茶席)の編集担当に招かれ、林歓のペンネームを使って、この副刊のために映画評論のコラムを執筆した。 この間、金庸の映画に対する興味がますます大きくなり、50年代後期になって、彼は新聞社を辞職し、長城電影製片公司に入ってシナリオを担当し、『絶代佳人』『有女懐春』『午晩琴声』などのシナリオを書き、それぞれ、長城の花形女優夏夢、石慧、陳思思、李嬙および二枚目の傅奇らによって演じられた。いい台本を書けるなら、監督もできる。その後からはすでに故人であるが名監督程歩と合同で、『有女懐春』を監督、胡小峰と『王老虎搶親』などの映画を監督した。切符の売れ行きはきわめてよかった。 金庸はずっと新聞経営には理想を持っていて、長城を辞めてからは、同級生の沈宝新と合同で『明報』を創刊した。事務所は中環の大中華飯庁の二階に設けた。時に1959年のことである。金庸は自ら社長と編集長を兼任した。細君が香港の新聞界を駆け回って、潘粤生を編集人に迎えた(現在は編集長である)。営業部は沈宝新が一人で表を支えた。当時の『明報』は単なる小新聞社に過ぎなかった。 『明報』初期は売れ行きがあまり芳しくなく、経済も不安定で、常に風雨にさらされた状態であった。金庸はしばしば『明報』の経済的困難に頭を悩ませた。金庸は貧しかったが、よき同僚に恵まれ、ともに苦労に耐えてくれた。たとえ時に給料がもらえないことがあろうと、苦労しながらやり続けることのできる人々だった。1961年は『明報』が経済的に最悪だったときで、ほとんど倒産しかかっていた。金庸は持ち前の強い性格と頑強な精神でこれを支え、ついに危機を転換してからは、ますますよくなって、今日の規模の『明報』『明報晩報』『明報月報』など『明報』系列にまで発展させることができた。 金庸は台湾、香港および海外では、新武侠小説で名を知られる。そのはじめは、有名な新聞人羅孚(すなわち絲韋)に励まされて武侠小説の執筆を試みたのであった。最初はまったく自信がなく、ただ適当に遊ぶのみであった。『書剣恩仇録』以後は、読者の熱烈な歓迎を受け、辞めようとしてもできなくなり、次々と作品を書いていくことになった。 金庸の武侠小説には、はっきりとした特徴がある。主題の選択において旧来の武侠小説と異なっている。多くは人民大衆の民族的復讐、国家への恨みを描いており、個人の恨みや男女の私情、貴族貴女の秘話にこだわらない。読んだあと、人を向上させ、奮い立たせ、人間この世に生まれたからにはお国のために民族のために少しの責任を尽くそうという感情を湧き上がらせるところがある。プロットの展開においては、往々にして唐突な展開が人を愕然とさせるが、最後にはまた包丁で牛を解体するがごとく、視野が開けて、ピンチのなか生きる道を切り開くのである。また推理小説の手法を学んでおり、隠さんと欲するがゆえに顕わし、曲げんと欲するが故に直く、変幻自在のストーリーで、本を手放すことができない。人物の塑像においては、小説の主役を多角形に描き、もっぱら一人を描くようにはしないので、古典小説の特徴を帯びることになる。具体的な描写においては、中国の古典小説とは異なり、しばしばまだ登場していないときに、すでに多くの疑問を配置しておき、突然話が行き来して、緊張や怪異な雰囲気、懸念を作り出し、読者が廬山の本当の姿を明らかにしたいとあせって、手中の物語を放り出したくなくさせ、物語を追いかけたいと思わせるのである。その情景描写、心理描写は、人物の性格や物語プロットの発展と結びついている。とりわけ貴重で、他の作家の追随をゆるさないのは、その該博な歴史と地理についての知識であり、また古典詩詞が小説のプロットや人物塑像に組み込まれていることである。たとえば、『神雕侠侶』で、絶情谷の一段まで描くと、「言情」は絶頂に達したといってよいだろう、いたるところ「情」であり、花でさえ情の花、また「絶」でないところはなく、地勢が「絶」なら、境遇も「絶」である。それゆえ、彼の小説は憂さ晴らしできる以外に、人の心とつながる部分を持っているのであり、十分な文学的価値を有するものである。 彼の作品には、『書剣恩仇録』 『侠客行』『天龍八部』『連城訣』『射雕英雄傳』『神雕侠侶』『倚天屠龍記』『笑傲江湖』『飛狐外傳』『鹿鼎記』『雪山飛狐』『碧血剣』などがある。 『射雕英雄傳』は金庸の作品中最も有名で、影響力のある作品である。作品の男女の主人公は香港では知らないものはない。『天龍八部』と『鹿鼎記』が金庸の代表作である。とりわけ後者は武侠小説における入魂の境地に達した作品であり、絶品である。『神雕侠侶』は恋愛小説であるが、愛情描写の細緻は、金庸のその他の作品には類を見ない。金庸自身が気に入っている作品は、『射雕英雄傳』と『神雕侠侶』であるとのことである。 (『 香港作家傳略』廣西人民出版社1989.7) |
作品集・単行本『書剣恩讐録(上)金庸作品集1』明河社 1975.6 |
|
|
|
|
邦訳『碧血剣、復讐の金蛇剣』小島早依、徳間書店、1997、4 |
研究資料『侠壇巨擘 金庸與新武侠小説研究史料輯』陳夫龍/編 人民出版社 2015.7 |
作成:青野繁治 |