1905 |
廣東番禺に生まれる。父親喜泰は、船工であったが、星海の出生前に世を去る。母黄蘇英は農村女性で、星海は完全に祖父に頼って生活していた。 |
1911 |
6歳、祖父が他界。母について南洋へ。母親が小間使いをして母子の生活を維持した。星海は旧式の学校に入学、四書五経の勉強を4年続けた。 |
1915 |
10歳。旧式学校から英国人の経営する英語学校に転校、1年間英語を学ぶ。 |
1916 |
11歳。英語学校を去り、華僑経営の高等小学校に入学、2年間学ぶ。 |
1918 |
13歳。廣東に戻る。嶺南大学付属中学から同大学へと進学。併せて6年学ぶ。この時期、半工半読で生活を維持しはじめる。 |
1924 |
19歳。勉学を終え、正式に働き始める。以後の2年間に、タイプライター、労働者夜学校教員、嶺南大学音楽教師など様々な職業を経験。 |
1926 |
21歳。北平(北京)へ行き、北京大学音楽伝習所に入って、約1年間、理論とバイオリンを学び、同時に北京大学図書館助理員を兼任する。 |
1927 |
22歳。下半年から上海国立音楽院に入学。 |
1929 |
24歳。夏休み中に学校の反動的な措置に反対して学生運動に参加し、国立音楽院を除名され、田漢の組織した南国劇社に加入する。 |
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フランスのパリに出国、Paul Oberdoefferにバイオリンを学び、半工半読の生活を開始。レストランのボーイ、爪とぎ屋、カフェの雑役やバンドマンをする。6年間のパリ生活において、歌唱専門学校、フランス国立パリ音楽院などで学び、1935年春、パリ音楽院高級作曲組を卒業。パリ音楽院では著名な印象派の作曲家デュカ(P.Dukas)に師事、創作上その影響は、彼の初期作品弦楽三重奏『風』に明確に表れている。 |
1935 |
30歳。夏の終わりに帰国。さかんであった抗日救亡運動と進歩思想の影響下、積極的に抗日救亡運動に参加、創作の方向を転換した。『運動会歌』『戦歌』『茫茫的西伯利亜』『流民三千万』などの歌曲は帰国後の最初の作品である。その後、交響曲第一番を書き始める。任光の招請を受け、百代唱片公司に入るが、公司と意見が合わずほどなく退社。 |
1936 |
31歳。新華影片公司に入り、『壮志凌雲』『夜半歌声』『青年進行曲』などの映画の音楽を指導。数本の映画中の歌曲も創作、観衆の賞賛を受ける。同時に積極的に救亡歌謡運動に参加、労働者、学生、職業青年らに歌唱を指導する。『救国軍歌』はこの時期の作品。 |
1937 |
32歳。春、アマチュア劇人協会の様々な上演に参加、『日出』『大雷雨』などの作品に音楽をつける。「八・一三」の後、洪深率いる上海救亡演劇第二隊に参加、浙江、河南、湖北などで抗日宣伝を行う。年末、武漢に留まり、郭沫若率いる国民党軍委員会政治部第三庁で働き、張曙とともに武漢抗戦音楽運動を主催する。 |
1938 |
33歳。有名な『太行山上にて』『敵後方に行く』などの歌曲を創作した。11月、魯迅藝術学院の招請を受け、延安へ。同学院音楽部主任に就任。歌劇『軍民進行曲』を創作。 |
1939 |
34歳。春、『黄河大合唱』『生産大合唱』『犠盟大合唱』を創作。6月、中国共産党に加入。 |
1940 |
35歳。5月、延安を離れ、ソ連へ。 |
1941 |
36歳、春、1935年に着手した『民族交響楽』(つまり交響曲第一番)の楽器編成を終える。 |
1943 |
38歳。10月に交響曲第二番(別名『神聖之戦』)が完成。 |
1945 |
40歳。4月に病床にて、最後の作品、組曲『祖国協奏曲』を完成させる。10月30日、モスクワで病気のため他界。 |