Qián Zhōngshū
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(1910-1998) |
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銭鍾書小伝:現代作家であり、著名な学者比較文学家著。作品には長編小説、短編小説、散文がある。小説は知識分子を反映した題材を主とする。代表的作品は長編小説の『囲城』。厳しい現実主義姿勢と熟練した風刺を利かせた伸びやかで緻密な文体で、20世紀の半封建半植民地下の中国社会特有のインテリジェンス群を描き、“新〈儒林外史〉”と呼ばれた。また学術方面で彼は中西文学の比較研究に力を尽くした。著書である『管錘編』はその力作で国内外の学者の賞賛を受けた。 無錫生まれ。小さい頃より父親の兄である叔父の大家庭で育つ。家には実の兄弟と従兄弟が合わせて10人、鍾書がいちばん年上で従兄弟たちとは実の兄弟と同じくらい仲が良かった。鍾書は子供っぽいうえに、勉強に真面目に専念できず、まるであふれる興味を押さえつけられないかのようにでたらめばかり喋っている子供だった。銭家の人々は赤ん坊のときの乳母の乳が彼を狂わせたのだとよく話した。鍾書は6歳で小学校に上がるが半年も経たぬうちに病を患い休学、その後11歳で4年制高等の小学校に上がるまでは叔父が毎日午後、彼と従兄弟の銭韓に授業をした。高等小学校に上がった年その叔父が亡くなり家計は全て鍾書の父親が負担しなければならなくなる。家は貧しく、学校に行くのに鍾書は教科書代が払えず本も買えない状態であった。また幼い頃の本を読みすぎで目を悪くしてしまい、教室の後ろの席では黒板の文字が見えず、したがって先生の話すこともさっぱり理解できない状態であった.練習帳のない彼は生前の叔父の手作りのノートを使って勉強した。貧しさが原因で学校で不当な扱いを受けたこともあったが、彼いわく、当時は幸いにもぼんやりしていたので羞恥心を抱くことはなかったという。彼の少年時代のとぼけぶりをいくつか披露すると、例えば彼は自分の生年月日をよく忘れた。また中学校になっても左右の区別がつかず、そのせいか靴を反対に履いていることがしばしばあった。英語が得意で体育の時間に自分の番号を一人英語で叫んだりしていたが、足元に目をやれば靴は左右反対という始末。下着やセーターなどもしょっちゅう後ろ前に着ていた。14の年に鍾書は蘇州のキリスト教系の中学に入学。20歳のとき清華大学に入学する。1968年に大学の同級生が『清華的回憶』という本を書き、その中で鍾書について述べている箇所がある。いわく「同級生の中で、鍾書が皆に与えた影響が一番大きかった。彼は中文英文どちらにも造けいが深く、また哲学や心理学にも通じていた。授業中はノートを取らず、授業とは関係のない本を持ち込んで一方で聞きながら一方では本を読んでいた。なのに彼の成績はきまって一番だった。」 |
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銭鍾書簡歴
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作品集・単行本『囲城』 長編小説 輔欣書局 中華民国79年11月 |
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邦訳『結婚狂詩曲』(囲城)(上)荒井健・中島長文・中島みどり/訳 岩波文庫 1988.2.26/¥500 |
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研究書・参考書・伝記『囲城内外――従小説到電視劇』 世界知識出版社 1991.8/3.40元 |
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『銭鍾書学術思想研究』 胡範鋳/著 華東師範大学出版社 1993.5/11.50元 『営造巴比塔的智者銭鍾書傳』張文江/著 上海文藝出版社 1993.12 『銭鍾書・楊絳 研究資料集』 華中師範大学出版社 1997.1/30.00元 『丹桂堂前――銭鍾書家族文化史』 孔慶茂/著 長江文藝出版社 2000.9/11.00元 |
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作成:片岡光 |