Liú Xīnwǔ
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(1942- ) |
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作品リスト |
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劉心武の概略
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出生劉心武は、1942年6月4日、四川省成都市に生まれ、祖父は清朝末期の科挙で、日本の東京帝大、早稲 田大学に留学した事があり、帰国後は北京大学、中山大学の教授になり、魯迅、朱徳等と交流があった ようで、また文学の造詣も深かったようである。「哀江南」等の著作が世に知られている。父の劉天演 は、北京協和医学院に学び(中退)、税関に従事したが、生涯を通して文学と京劇を好み、青年期には 章回小「鉄蘭花」を執筆した。 母は北京女子師範大学を卒業し、五四運動に参加したことがある。彼 女は寛容温和で、好んで文学書籍を読み、ひとたび「紅楼夢」を話し出せば、非常に詳しかった。この ように、文学的な雰囲気に満ちた家庭が、劉心武に幼い頃から良い文学の影響を与えた。 |
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幼少期から中学にかけて1946年、4才の劉心武は重慶の税関子弟小学校で啓蒙教育を受けた。1950年、父が国家税関本局に配 属になり、家族は北京へ引っ越した。彼は始め私立小学校で学び、後に隆福寺小学校に転入、高学年過 程をそこで学んだ。「アンデルセン童話」、「鋼鉄は如何にして鍛えられたか」及びゴダールの「ドラ マーの秘密」等は彼が最も早い時期に読み感動した作品である。12才の時、北京21中に進学した。当時 彼は20余種の文芸定期刊行物を予約購読し、閲読の範囲は相当に広いものであった。彼はむさぼるよう に「虻」等の文芸書籍を読んだ。「紅楼夢」は彼が最も早い時期に読んだ中国古典小説である。中学生 時代の彼は画家になる夢も抱いており、美術に対して強い興味をもち、水彩画の腕前はかなりのものだ った。しかしながら中学の壁新聞のために描いた挿絵はどれも彼が書いた文章ほど皆を感動させなかっ た。 |
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高等学校での学生生活から教師になるまで 1956年、彼は北京六十五中学で高等教育課程を学び、積極的に学校の図書委員会活動に参加した。彼 は、校内図書館のほとんどすべての文学蔵書を読み通し、新書が届く度毎に真っ先に読み楽しんだ。バ ルザック、ロマン・ロラン及びロシア古典作家の作品の中国語訳本を勉めて読んだようである。「鉄流」等のロシア革命初期の小説もこの時に読んだ。彼は文学の精緻さを理解し、自己の文学鑑賞力を育てた が、これは彼が後に文学創作に従事するための基礎となった。この時期、彼の興味は依然として広く、 重量あげ選手になりたいと思ったり、演出家になりたいとも考えたり、また舞台に上り劇を演じたりも した。卒業時には、中央戯劇学院監督科を受験し予選を通過した。彼は、幼い頃から演劇が好きで、よ く父母について劇を見に行った。少し大きくなってからは、一人で劇場にもぐり込み、北京芸能の新劇 はほとんど見た。「雷雨」公演の時などは、たて続けに五回も見た。彼は北京大学を受験したこともあ り、当初は考古学者になりたいと思っていた。しかしながらこの理想は結局実現しなかった。大学受験 の際、重点大学に合格しなかったのである。これは、彼の学習の成績が悪かったからではない。中高等 教育課程における彼の各科目の成績は優秀であり、理数系の成績は意外にも文系科目の成績より良く、 クラス内ではずっとエリートの一人であった。上合格の原因は、彼の”言うのをはばかる家庭関係”と、 いわゆる”専門ばか”で、学校側の評価は悪かった。彼が合格したのは師範専科学校だった。 |
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創作活動 劉心武の文学試作活動は、中学三年生の時に始まった。彼は小説を書き、投稿もした。しかしながら 投稿する度に突き返された。高校二年生の時、彼は『読書』に評論文「『四十一番目の男』について」 を発表した事により、今度は文学評論に熱心になりだしたが成功はしなかった。 |
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文革期 文革が始まった頃、劉心武は二十四歳に過ぎなかったが、攻撃を受け三家村グループの足軽(三家村 小走卒)とされ、上当に批判を受けた。彼が書いた短文「京劇は今日的な現実の生活を表現するべきは ない」は、江青への批判を招くものだとみなされ”現行の反革命分子”のレッテルをはられた。彼は教 壇に立つ事が許されず、強制的に農村に下放させられ、穀物の取り入れや用水路を掘ったり等の肉体労 働を強いられた。 |
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「クラス担任」執筆 1997年文芸界は、”生活から出発し創作を行う”という趣旨を強調していた。76年から北京人民出版 社の編集を担当していた劉心武は、すばやくその文芸界の情報を感じ取った。彼は自分の熟知した学校 生活について考え、短編小説「クラス担任(班主任)」を執筆した。 |
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70年代末の作品 「班主任」の成功により、劉心武の文学創作は豊作期を迎えた。「愛情の位置(愛情的位置)」、 「目覚めよ、弟(醒来、弟弟)」、「終わらない授業(没有講完的課)」、「らくだ色のオーバーを 着た青年(穿米黄色大衣的青年)」等を創作した。その中でも「愛情の位置(愛情的位置)」と「目覚 めよ、弟(醒来、弟弟)《は社会の反響が大きかった。これらの作品は、玉石混交ではあったが、作 家が革命現実主義の道を絶え間なく歩みつづけ、人々の心の傷を癒すための思考を表現したものであっ た。 |
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80年代の作品1981年に発表された中編小説「立体交差橋」は、彼の文学創作が新たな段階にまで推し進められた事 を示した。この作品は、作家が平素から持っていた生活への敏感さと、内に潜めた思考をはっきりと示 したもので、思想と形象が互いに溶け合う事において、渾然一体への進歩がみられる。彼は、筆によっ て北京の市民生活をたずね歩き、70年代から80年代にかけての北京社会の風俗画を描いた。読者はこの 作品を通して、歴史的な原因により”生活空間”が諸々の焦りや苛立ちや圧迫感を市民にもたらし、人 と人との間に心の距離をもたらした事等を感じ取ることができ、「立体交差橋」には、人々が建設や物 質的な豊かさを心から望んでいる事が表現されている。また、作品中の”立体交差橋”は、人々の心の 交流での現代的モラル追求のシンボルとして用いられている。作品中の人物や事柄は、複雑に交錯しつ つ進行していく事で立体を形作り、次第に鮮明になっていく。それは劉心武の生活の基盤が豊かである 事を示している。「立体交差橋」発表後、まもなく発表された中編小説「銀観山」「嘉陵江は血管に 流れ入る(嘉陵江流進血管)」「茶話会」や、短編小説「今宵は頭痛(今晩頭痛)」「非重点」「大塔」等は比較的によく書けている。 |
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「鐘鼓楼」1984年、劉心武は長編小説「北京下町物語(鍾鼓楼)」を発表した。この小説は、彼個人の文学創作 における新たな突破口となったがそれだけではなく、多くの読者と評論会の称賛を得た。「鍾鼓楼」は、 現代的な精神をそなえた現代小説である。作品は、紀実的な手法をとり、多層的に網のめ式に二・三十 人の主要人物の生活を展開させ、性格や社会的な立場また文化レベルや心理など、彼らを形成する諸々 の相違点を掘り起こした。広い視野をもって社会の動向を見つけだし、同時代の文明を歴史的に考えて いる。生活を把握し、隠れたものをさぐり、極めて小さな事柄を発見するというその思考から生まれた 本作品は、読者の前に「清明上河図」のような風俗画を示し、それはまた数代に渡る人々の生活を一日 に凝縮した現代社会の断面図でもある。 |
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80年代末の作品「鍾鼓楼」についで、劉心武は問題小説を書くことで本領を発揮した。短編小説「5・19クローズアッ プ(5・19長鏡頭)」や「バスのアリア(公共汽車詠嘆詞)」は、多くの読者の共感を読んだ。1986年、 彼は中編小説「はてしない廊下(無尽長廊)」や紀実中編小説「王府井万華鏡(王府井万華筒)」等を 発表した。 |
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その他の執筆活動劉心武の作品は非常に多い。新時期以来、60余編の短編小説、10余編の中編小説と50余編の散 文を発表している。すでに出版された小説集に『母校留念』、『クラス担任(班主任)』、『劉心武短 篇小説先集(劉心武短篇小説選)』、『緑葉と黄金(緑葉和黄金)』、『如意』、『遠くへ行って手紙 を出そう(到遠方去発信)』、『日程緊迫』、『三十なんか恐くない(我可上怕三十歳)』、『立体交 差橋』等がある。また彼は、1978年以来、100編にのぼる文芸論文や、創作経験の教訓や、文学の規 律を問いただした小論文や、作品論等を発表しており、形式は多種多様で内容も充実している。その中 でも「私は深い井戸を掘る(我掘一口深井)」の与えた影響は大きい。文芸論文集『文学青年との対話 (同文学青年対話)』や、その他数篇の創作談は、若い文学愛好家の力添えになるものである。 |
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その他の活動劉心武は、これまで『十月』の編集や『北京文学』、『みにくいあひるの子(醜小鴨)』、『小童文 学』、『東方少年』の編集委員をつとめたことがあり、中華全国青年連合会の常任委員にもなった(19 79~90)。1979年に中国作家協会に加盟し、79年(第三回)と84年(第四回)に中国作家協会の全国代 表大会に出席した際に協会の理事に選ばれた。1980年には、中国のペンクラブセンターに加盟し、世界 ペンクラブの中国会員になった。同年4月には、中国作家協会北京分会に転任になり専業作家になった。 1979年以来、彼は中国の作家として、中国映画代表団の一員として、ルーマニアや日本、フランス等を 訪問した。1987年から1990年3月までは『人民文学』の編集長でもあった。 |
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作成:上原かおり |