茹志鵑

Rú Zhìjuān
茹志鵑
じょ・しけん

(1925-1998)

茹志鵑自伝:

 かつて阿如、初旭などのペンネームを用いた。祖籍は浙江杭州である。
 1925年農暦9月13日上海生まれ、排行は5番目である。祖先は生糸の商売をしていたが、その後没落して都市貧民となった。2歳で母をなくし、父は家を捨てて出て行き、一家は離散した。私は祖母について、上海と杭州の間を転々とし、手仕事で飢えをしのいだ。11歳から上海の私立普志小学校で一年間学んだが、13歳のとき祖母が死に、上海のキリスト教会が経営する「イマネイリ」孤児院に入った。半年後三番目の兄に連れ出され、上海市婦女補習学校で寄宿生となった。太平洋戦争が勃発すると、学校は授業停止となり、兄に連れられて浙江東部へ行き、結局浙江武康県の初級中学を卒業した。小学校を併せても就学年数は4年に満たなかった。
 1943年に卒業してから、上海の頤生小学校で半年間教鞭を執った。最初の作品「生活」は、1943年11月22日『申報』副刊「白茅」に発表した。同年冬、兄とともに蘇中根拠地に行き、新四軍に参加した。はじめは蘇中公学の学員、その後、蘇中軍区前線話劇団の俳優、組長、分隊長などを経験した。1945年蘇中軍区が華中軍区と華東軍区に編成替えになったが、ずっと軍区文工団の組長、分隊長、創作組副組長などの職にあった。1947年中国共産党に加入。この年書いた歌詞「必死で走れば、闘いは勝利」が軍区文芸創作二等奨を獲得した。
 1950年、上海の『文匯報』に、解放後最初の短篇小説「何棟梁與金鳳」を連載した。1952年に創作した三幕話劇「上拿槍的戦士」南京軍区文芸創作二等奨を受賞した。
 1955年7月、上海に転勤。『文芸月報』編集、小説組副組長、組長などを勤める。作家協会上海分会会員として吸収され、中国作家協会員となり、後に分会の理事に選ばれる。1958年3月『延河』に短篇小説「百合花」を発表、同年9月『人民文学』に転載され、茅盾先生の賛辞と激励を賜る。1959年第一短編集『高高白楊樹』(上海文藝出版社)を出版、10編の短篇小説と5編の特写を収録。1960年編集のポストを離れ、専業創作に入る。1962年第二短編集『静静的産院』(中国青年出版社)を出版、その中の「静静的産院」「如願」「阿舒」「三走厳庄」などが、茅盾、謝冰心、侯金鏡など老世代作家、評論家の好評を得た。それら多くの作品は、日本語、ロシア語、フランス語、英語、ベトナム語などに訳されている。「如願」はソ連の「婦女」雑誌奨を受賞した。
 1977年上海市第7期人民代表に選出される。1985年作家協会主席団委員、作家協会上海分会常務副主席に選ばれる。現在作家協会上海分会党組書記、副主席、『上海文学』副主編である。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作品集・単行本

『百合花』短篇小説集 人民文学出版社 1978.9/0.64元
『草原上的小路』短編小説集 百花文藝出版社 1982.8/0.61元
『她従那条路上来』中篇小説 上海文藝出版社 1983.8/0.90
『母女漫遊美利堅』旅行記 王安憶との共著 上海文藝出版社 1986.10/2.05元
『茹志鵑作品欣賞』廣西教育出版社 1987.3

参考書・研究資料

『中国当代文学研究資料 茹志鵑研究專集』浙江人民出版社 1982.7

邦訳作品

「家事(家務事)」真山夏/訳 『日中友好新聞』1177-1182号 1980.10.5-11.9
「構成のまずい物語(剪輯錯了的故事)」上野広生/訳 『現代中国短編小説選』亜紀書房 1983.1
「草原の道(草原上的小路)」上野広生/訳 『現代中国短編小説選』亜紀書房 1983.1
「女ごころ(児女情)」上野広生/訳 『現代中国短編小説選』亜紀書房 1983.1
「児をおもう(児女情)」辻康吾/訳 『キビとゴマ』研文出版 1985.4
「ときを往く(跟上、跟上)」井口晃/訳 『季刊中国現代小説22』1992.7

邦訳単行本

『茹志鵑』現代中国文学選集11 徳間書店

作成:青野繁治

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