沙葉新

Shā Yèxīn
沙葉新
さ・ようしん

(1939- )

沙葉新自伝

 私は1939年7月13日に南京のある小商人の家で生まれた。
 父は半文盲で、人となりは温厚篤実だった。母は文盲で、良妻賢母型の女性であった。
 私が少年のとき、両親は焼き物屋をはじめた。毎月包装紙用に古本を大量に購入した。 私はその古本の中から文芸書を見つけて、貪欲に読んだ。これがわたしの文学啓蒙教育の 始まりであった。
 1950年、私は南京の火瓦巷小学校を卒業し、1957年に南京第五中学を卒業した。
 高級中学2年のとき、私は『江蘇文芸』に最初の小説「妙計」を発表した。私の処女作 である。極めて幼稚な出来だが、その後一生文学の道を歩むのを決定づけた作品である。 高級中学にいる間、私は続けて二編の短詩を発表したが、そのうちの一編は恋愛の詩であ った。当時私はほんの16歳で恋の味も知らなかったが、どこからそのような構想がわいた のであろうか。
 1957年華東師範大学中国語言文学系に入学、これが作家になることを決定づけたようで ある。大学在学期間には2編の小説を発表し、なかなかの反響だったので、作家になれる という自信が増した。
 1961年夏に大学を卒業。成績が優良であったので、上海戯劇学院戯曲創作研究班の研究 生(大学院生に相当)となることを保証される。それ以来、私は演劇と切っても切れない 縁によって結ばれたのである。
 1963年夏大学院を卒業する直前、私はフランスの印象派の音楽家ドビュッシーを弁護す る文章を書き、ドビュッシーを批判する姚文元と議論を繰り広げた。その結果私はドビュ ッシーよりもひどい批判を受けることになった。
 大学院を卒業すると、上海人民芸術学院で劇のプロデュースを担当した。私がここで正 式に上演した最初の劇作は、私が1965年の暮れに創作した一幕喜劇「一銭のお金」である。 これは講演の後好評を博した。当時の劇院の院長で有吊な舞台監督の黄佐臨は「沙葉新に は一銭のお金という元手を手にした《とおっしゃられた。私もうれしかった。ところが、 「文化大革命」中に創作した「辺境の新芽」が、思いがけず、「四人組」の創作原則であ る「三突出」に違反したため、1974年の「批林批孔」の際に、「四人組」の手先である于 海泳、徐景賢の名指し批判をうけ、批判大会を開いて私をやりこめた。これで私はわずか な一銭のお金を全部すってしまったのである。
 1976年「四人組」が失脚すると、私は喜びに泣いた。それからは私と私の国はともに新 しい時代に入ることになった。私の創作の意欲もそれに伴って高まった。しかしこの時期 の作品は、「陳毅市長」「約会(デート)」を除いては、毎度論議を引き起こした。「假 如我是真的(もし僕が本物だったら)」「大幕已経拉開」「馬克思秘史(マルクス秘史)」 から、最近の「尋找男子漢(男のなかの男を求めて)」にいたるまで、すべてそうであっ た。
 批判は受けたが、私は我が道をゆくである。書く毎に批判されたが、批判されるたびに 私は少しも気落ちすることなく、嫌になることもなく書き続けた。ひょっとすると、そう いった論議がかえって私の元手(資金)を増やしてくれたのかも知れない。こうして私は 中国作家協会会員、上海市文学芸術界聯合会委員、中国戯劇家協会常務理事、中国電影文 学学会理事、中国電視芸術家協会会員、中国話劇芸術研究会常務理事、上海工業大学顧問 教授になることが出来たし、さらに1985年6月には上海人民芸術劇院院長に任命されること になった。実際には、私の元手は私を文学上の大富豪にすることはなかったし、私の先輩、 同輩たちと比べるとずっと貧困なのである。さあ、頑張らなければ!

自分の主張の通りに書く


 文学は中国の古代人が言うように、「経国の大業《でも「上朽の盛事《でもなく、我々が 外国の導師の言葉を誤って翻訳したような「歯車とねじ釘」でもない。古代人も西洋人も文 学の価値を高く見積もりすぎており、文学の作用を過大に評価している。私は今の人々の文 学に対する主張をあまり重視してもいない。一つには騙されるのが嫌だからで、もう一つに は、他人の主張がどんなに立派であっても、自分の創作に取って代わることができないから である。私は書くのなら、自分の主張に従って書きたい。自分の主張に従って書くというの が、私の重要な創作の主張なのである。
 文学は嘘をついてはいけない。真実を語らねばならない。真であって初めて善であること ができ、美となりうる。文学がもし嘘、虚偽、欺瞞、ペテンをやったら、きっとその醜悪さ のために読者から唾棄されるであろう。文学が真実を語るには、まず作家が誠実な人間でな ければならない。作家は生活をありのままに反映しなければならない。真摯に作品中に自分 の心を表白し、読者に対して真剣に対峙しなければならない。要するに作家は、その生活、 著作、情感のどれもが本物でなければならないのである。
 文学は勇敢でなければならない。思い切って光明を謳歌しなければならないし、思い切っ て時代の弊害を突かなければならない。この三十年来、中国は政治上の民主が上健全であっ たため、文学も然るべき批判的機能を失ってきた。ここ数年多くの作品が論議を引き起こし ているのも、作品の批判的機能が、ある一部の人々に受け入れられないからであった。この 状況は今のところ好転しはじめている。和やかで穏やかな雰囲気になり始めた。文学の声は 微弱ではあるが、あらん限りの声量で勇敢に自分の声で叫んでいる。賛美の声であろうと、 憤怒の声であろうと。実は憤怒も一種の愛の激情であり、愛情の表現の形態が違っているだ けなのだ。
 私の経験は、余り経験を重んじないということだ。他人の経験を重んじないし、自分の経 験も重んじない。経験を重んずると、それは文学が守らなければならない模範となるであろ う。経験に束縛されなければ、他人を模倣することも避けられるし、自分が重複することも さけられる。そのようにすれば、自分は文壇上に新旋風を巻き起こした刷新者になることも できよう。文学芸術には刷新が必要であり、刷新がなければ、いかなる貢献も価値もないこ とになる。

(『当代中国作家百人傳』求実出版社1989)

作品目録


『假如我是真的』(劇本)《上海戯劇》、《戯劇芸術》聯合増刊1979年9月
『陳毅市長』(劇本)《劇本》1980年5月
『馬克思秘史』(劇本)《十月》1983年3期
『中国姑娘』(電視劇本)《百家洲》1984年5-6,1985年1-2連載
『宋慶齢』(電影劇本)《十月》1984年4期
『沙葉新劇作選』1986年江西人民出版社
作成:青野繁治

Chinese Literature Site

error: Content is protected !!