湯吉夫

Tāng Jífū
湯吉夫
とう・きちふ

(1937- )

湯吉夫自伝:

 1937年9月28日山東省黄県城東のある辺鄙な村に生まれる、先祖は代々農民であった。満州国時代に、父は吉林から流浪して青島に流れついた 。1944年の春、私は母について青島まで父を訪ねて行き、それ以後、この美しい海浜都市に定住することになった。

 小学校、中学校時代はいずれも青島で過ごした。「説書」を聞くのが好きだったことから、物語をつくり語ることに興味が湧いた。我々が住んでいた貧民住宅の子供たちのなかでは、私は物語の名手だった。それが私の最初の文学創作の試みだったと言うべきだろう。中学、高校時代にアメリカ、フランス、ソビエト・ロシアなどの国の作品に触れ、また解放区からやってきた文学作品の啓蒙を受け、小説を書き始めた。このような身の程知らずの行為は、私の先生たちに大いに賞賛された。

 1956年の夏がすぎると、私は上海第一師範学院中文系語文専修科に入学した。志望大学とは違っていたので、非常に悩んで、勉強にも力がはいらなかった。しかしそのような情況が却って私を成長させた。つまり自分で学ぶように刺激を与えたのである。師範学院の図書館や福州路にあった古本屋で、わりあい系統的に古今東西の名著を読み、文芸理論に興味を抱き始めた。

 1958年の春、学院が第一回の作文コンクールを開催し、私は「彼女の病気《という諷刺小悦をエントリーしたが、意外にも第一位を獲得した。創作練習の授業を担当されていた許志行先生は、それを読んで、喜んで、マルや点をつけ、タイプ室で謄写版印刷し、授業で詳しく論評された。それは私にとってこの上ない励みになった。

 1958年の秋、私は北京から近い河北省の香河と呼ばれる県城に配属されて、中学校の語文(国語)の教員になった。そこで私は、私が小説を書くのを支持してくれる開明的な校長と知り合った。彼、陳浩山は中国の当代作家劉紹棠の入党紹介人であった。そのおかげで私の創作活動は順調となった。その頃はまだ大学を出たばかりで、同窓生同級生たちが懐かしく、「上海の大学生」という長編小説を書くこと決意させた。たまには、児童歌や短文をいくつか書き、上海や北京の刊行物に発表した。「上海の大学生」は何度か改作を経て、「文化大革命」の烈火の中で燃やされてしまうことになる。「文化大革命」の暴風が襲ってくると、私は「牛鬼蛇神」(妖怪変化)とされて、引きずり出され、衆人に曝され見せしめにされた。それで創作は休止することとなった。

 1975年5月、私は河北省廊坊師範専科学校の教員として配属され、それ以後は今日まで、ずっと教員、講師をつとめ、1983年には副教授に昇進、同年8月からは同校の校長を務めた。

 1978年、中国文学事業が復興したころ、私の古い思いが再び燃え上がり、また小説を書き始めた。

 1979年、偶然の機会があって、中国作家協会河北分会に招かれて、ある小説創作座談会に出席した私は、参加者から激励を受け、家にもどると一気に7編の短編小説を書いた。そのうち「老渋外伝」は1980年の『上海文学』第8期の巻頭に掲載された。影響力のある文学定期刊行物だったので、私は読者の注意を引くようになった。ほどなく『文芸報』文学新人欄が私の創作を紹介したため、私はまるで虎の背にまたがったように、どうにもならないまま続けて二三篇書き下ろした。

 1978年から数えると、およそ50数編の短編小説と5部の中編小説を発表し、『湯吉夫短編小説集』を出版したことになる。冷静に論ずれば、これらの作品のなかには、「上乗の作」(名作・傑作)に入れられるものはほとんどなく、多くは他人が読んで忘れがたく思うたぐいの小さな物語である。

誠実の中に詩が宿る

  文学は歌を吟ずるのに似ている。
 平凡な人間の精神がバランスをくずしたり、興奮したり、憂えたり、喜んだり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだり、要するに常態を打破したとき、叫びをあげ、発散したいという要求がうまれ、そこに歌が生まれる。それは感情の震えであり、当然感情的なこだまを喚起しやすい。これを共鳴という。心が波のたたない水面のように静かなときは、軽い歌が出てくる。無意識に近い自然な流出は、期せずして軽快さや静けさを伝えるかのようである。それは心の声ともみなすべきであろう。

 創作の推進は、歌吟の発生に類似する。人が情感の響きを受けとって、それを歌吟とは異なる文字の形式で表現したとき、創作が生れる。ゆえに私はいつもこう考える。この世の作品というものは、海のように広大だが、感情を駆使する情況から言えば、喜怒哀楽という幾つかに過ぎない。感情の起伏から創作が生成されるのだ。それに人間の感情はこれまで単一であったためしがなく、作品の場面も必然的に複雑な表現をもつことになる。

 私は感情の作用を信じるし、崇めもする。作家は感情の豊かな人物であるべきだと深く信じる。

 もし外的力によって、作家の感情が傷つけられ、感情が麻痺し、鈊くなると、創作力も尽きてゆく。 心が枯れ井戸のようになった作家は、まだ歌える言葉があるとは思いもつかない。当然、作家は胸の思いを思う存分ぶちまける権利が得られないときもある。しかし心の火が消えないでいれば、きっと別の形式を探し出すことができるだろう。作家のなかにも、ろくでなしはいる。卑俗で悪劣な考えから、ある種の感情を偽装する。それは虚偽であるばかりでなく、醜悪でさえある。赤ん坊のような心は、作家にとっては、その生命の終わりまで保ち続けなければならないものである。

 ゆえに、情感を崇めるとき、私は心から真心を擁護する。

 私が創作の道に進んだのは、最初は純然たる遊びからであり、その後は若者が名作家を崇め慕う心理からであった。しかしいずれも上手くいかなかった。それから私は億万の同胞とともに、大災難の洗礼を受け、自分の心の中に、たくさんの言いたいことが蓄積されるのを感じた。愛あり、憎しみあり、涙あり、ぬくもりあった。国家と民族が全体として再び泥沼から抜け出して、ようやく私は本当に筆をとることができた。

 若い頃、私はチェーホフやゴーゴリ、ディケンズ、バルザックが好きで、その後、魯迅や老舎など中国の作家の影響をうけた。だから、私の作品には、多少なりとも憂鬱、諷刺、ユーモアの影があるが、詩のような優美さや哲人のような叡智は、どうやってもその糸口を見出すことができない。もっと重要なことは、思うに、自分が知らず知らずのうちに人生の為の文学という観念を受け入れていたことだ。だから、その後、自ら魯迅の子孫を自認した。自分では永久にあのような高いレベルに到達はできないとわかっているが、彼の文学から、私のペンと周囲の世界との関係が認識できるだろう。教員としてだろうが、作家としてだろうが、私は永遠に億万の同胞の召使でなければならない。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作品集・単行本

『湯吉夫短編小説集』

作品目録

 「老涩外传」(短篇小说)上海文学1980.8
 「归」(中篇小说)百花洲1981.3
 「希望」(短篇小说)河北文学1981.9
 「蒙面女」(短篇小说)上海文学1982.2
 「晚恋」(中篇小说)长城1983.3
 「忆江南」(中篇小说)长城1984.2
 「再会,小镇」(短篇小说)萌芽1984增刊
 「夜归」(短篇小说)长城1985.5
 「过河卒子」(中篇小说)长城1986.1

 
作成:青野繁治

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