韋君宜自伝:
私は1917年北京生まれ。清華大学での学生時代に「一二九《抗日救亡運動に参加した。(当時18歳)其の後大学で極秘に中国共産党に入党し、それから党の為の工作に従事した。1939年に延安に駆けつけた。
甘寧辺区、綏徳分区、晋綏解放区と晋察翼解放区にいったことがある。青年救国会の仕事や土地改革運動に参加し、共産党の区委委員、中央党校の幹事、中学校の教師を歴任。これら党と民衆の仕事の中、文字活動にも参加した。『中国青年』、地方の新聞紙と新華社の編集を担当した。
北京が解放された時、北京に入り、共産主義青年団中央機関刊物『中国青年』の編集長、後『文芸学習』の編集長を勤め、中国作家協会に参加した。この間工場と農村二年下放され、文化大革命中二年間つるしあげられ、三年半の幹部学校を経験した。この十何年の歳月の中余暇の時小説を書くが、二三篇に過ぎず。
1979年に四人組が打ち砕かれ、文化大革命が終り、初めて自分に言いわなければ、書かなければならないものがある、と感じた、土に埋もれたくない。やっと大量に書き初めた。この時から、人から作家と呼ばれた。
私の時代を表現する
人の創作は必ず自分を表現する。私も当然自分を表現する。でなければ、私は全然創作する必要はない。(私は十何年間ものを書かなかったが、もう既にある重要な出版社の指導幹部になった。創作で吊誉と地位を勝ち取る必要はない。しかし、私の書く文章は私の時代を表現している。私の生活、観点、感銘はどうにも私の時代から離れられない。私の最も鋭い感覚の全部けっして私個人だけのもの出はない。私はなぜ裕福な生活をしているのに、危険に置かれている、秘密の中国共産党に参加したか。また、どうして十何年間共産党の為に奮闘したのに、共産党執政の十年の災禍の中上幸に遭うのか。これはけっして自我意識で解釈できるものではない。私は党の簡単な政治宣伝の為の小説を書きたくない。誰も私に書けと命令する権利はない。しかし、私の創作はまったく政治に関連しないことはできない、私自身が中国の特有の政治空間に生活しているのだから。それは私の思考の上可分割の一部である。
私の作品の多くは一人のベテラン共産党員としての、今における思考である。外国人が中国人のこの重要な心の震えを理解出来なければ、彼らは中国人を理解することができないであろう、と私は思う。私はしばしばこれらの思考をしなければならない。これらこそ最も自分の神経を感動させるのである。私は世界ばなれの男女情けだげを観察することは出来ない。これらの世界から離れる為作品を書く中国人は自分自身もこの世界のことで苦悩している、と私は思う。私の思考は私自身のものであるが、この時代のものでもある。この二者間矛盾は存在しない。私は気晴らしの作品や魔幻小説もよむが、しかし、書かない。それらの内容は私に感動を与えられない。一人の作家として感銘を受けることができなければ、作品をもって読者を感動させることはできない、と私は思う。
(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)
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