Wú Jiǎnrén
|
(1866-1910) |
呉趼人小伝:呉趼人、清末のジャーナリスト・小説家。名は沃堯、字は小允、号は繭人、後に呉趼人と改める。広東省南海( 現在の広州 )の人。幼い頃に北京から仏山鎮に帰郷し、自らを我仏山人と称した。1883年頃( 二十歳過ぎという説もある )上海に移り、その後しばらくの間山東や日本をぶらぶらと遊行する。97年より『 字林滬報 』副刊 「 消閑報 」、『 采風報』などの主筆となり、1902年招かれて『漢日日報 』 を編集。横浜で発行された『新小説』に、官界、商界に繰り広げられる奇々怪々な事柄を寄せ集め、それらを通して清末20年間の腐敗した社会を描く「二十年目賭之怪現状」(雑誌停刊後108回を広智書局から出版)を発表。その他「 痛史 」「 電術奇談 」(菊池幽芳「 新聞売子 」の翻案)、「 九命奇寃」を連載する。05年『楚報』に招かれて再び漢口に行くも、反美華工禁約運動に共鳴し同紙を辞職。そのためか彼の政治傾向はどちらかというと改良派に近い。06年上海で『月月小説』の編集に携わり「両晋演義」「上海遊驂録」などを連載するほかに、いくらかの短編小説を発表した。07年両広同郷会を組織、広志小学校を開く。他に「 恨海 」 など多数の作品を残したが、10年四十四歳の若さで逝去。彼の代表作とも言える「 二十年目賭之怪現状 」には、当時の流行や政治、社会の中の暗黒部分や腐敗の現状が暴露され、旧道徳の回復が主張されている。譴責小説の代表作家といえるであろう。 |
作品集 ・ 単行本:『痛史』章苔深校註, 中華書局, 1959.12 –– |
作成:式部登詩子 |