張志民

Zhāng Zhìmín
張志民
ちょう・しみん

(1926.5.21 - 1998)

張志民自伝:

 北京人。1926年5月21日、京西百花山ふもとの小山庄――張家村で生まれる。ここは、河北省宛平県に属し、解放後、北京市近郊地区。宛平は、人のよく知る県である。その一因として、1937年の『七七事変』。宛平県 城芦溝橋で勃発。このことで有名となった。二つ目の理由は、宛平が『京兆』の地である。光明正大な沈木旁の『宛署雑記』中に、宛平を『京師首善之巴』と呼んでいることから、宛平は歴史上の地位をがあることがわかる。私の故郷は北京市からたった百里余りの距離であるが、山や河が重なるため交通が不便である。旧社会において農村人は都市に入るのがとても困難である。このために、北京郊外区でも辺鄙で辺境の地であり、経済や文化ともにあまり発展しない。
 私の父は農村小学校教師であり、漢方医も兼ねていた。父は幼い頃働いていて、洋学を勉強したことがなく、ただ何年か私塾で勉強しただけである。しかし勉強するのに苦労した。中国の旧文学や医学に対して、いくらか時間を費やし、「五四事変」後、いくらか新文学の影響を受け、農村一帯では知識人であった。しかし家には土地がなく、 生活が苦しかった。私の覚えていることからでも、家族は父に付き添ってよその地で教師をしたり医者をすることで 生計を立て、とても不安定な生活を通り越して余裕が少ししかない貧困の生活を送った。家庭では父は私に対して偏愛した。各地で仕事や医者をするたびにいつも私を傍らに連れていった。七、八歳から、いつも父に付いていつもあちこち奔走し、このことで私は普通の農村の子供よりも社会世間を直接見る機会が多く、都市と町、農村、上層、下層さまざまな人にかかわり、この幼少期の経験は以後の創作にとても影響があった。
 「七七事変」の時、我が家の当時の住まいは芦溝橋からたった数十里の所にあり、毎日砲声が聞こえてきた。北京郊外一帯は戦乱中で、父の勤めている学校は休校となり、生活もままならなく、故郷に戻るほかない。やがて、八路軍の挺進先遣隊は華北前線に向けて出発し、抗日政権を打ち立て、抗日武装を組織した。私の郷里一帯は敵の後方のため早くも抗日根拠地、つまり威震北平の「平西」解放区へと変わった。
 1937年、父と兄は相次いで抗日戦争に参加した。1938年夏、私も家庭を離れ、革命に参加した。当時、まだ幼くほんの12歳であったため、まず、地方部門で「小鬼(ちび)」と呼ばれ、後にまた抗日高等中学や民族革命中学で勉強を続けた。学校では「中国少年抗日先鋒隊」に参加した。1940年秋「挺進軍」に参加する。1941年中国共産党に入る。
 私の極めて簡単な歴史であるが、言ってることは農村に生まれ、部隊で育ったことである。入隊後、「抗大四団」で学び始め、卒業後挺進軍司令部作訳電員に配属された。その後部隊では、文化教員、政治教員、指導員、軍区政治部の宣伝責任者、組織幹事、軍校の隊長、教務員などの仕事をした。1947年から1948年、私は河北西部農村の土地改革運動に参加した。1949年華北軍区文化部創作組を派遣して、専門創作をした。1951年から1952年は、中国人民義勇軍に参加し、朝鮮前線に赴き、生活に深く入り込む。1953年から1954年まで「中央文学研究所」で学んだ。1956年部隊をやめ、まず出版社、刊行物編集部において、「副総編」や「主編」などの職務についたことがる。しかし基本的には専門創作にたずさわった。「文化大革命」中、林彪や「四人組」の陥れによって四年もの間監獄にいれられ、精神と肉体ともに重大な損害を与え、私は十年間筆をおかされた。「四人組」が粉砕された後、再び筆を持った。現在北京市作家協会駐会作家となる。
 文学を好むのは幼少の頃から始まった。小さい頃家庭が貧しかったために、私は比較的早くから家庭の労働を担ったので、未だ正規の勉強はしていない。しかし父が文学を愛好したので私に詩句の類の文学の常識を教えてくれ、私の文学に対する関心を養成し始めた。革命に参加した後、敵の後方、戦場の熱い闘争や革命の文学作品は皆、私の文学に対する感情を深めた。その上、長期に渡って文化、宣伝の類の仕事をした。更に私が幼稚な筆で、闘争任務にふさわしい文章を書くことを促した。これらの文章は格好悪く、書くままにほうってあるが、私が文章を書く練習の始まりである。その後、時々部隊小報に通信や散文の類のものを書き、だいたい1946年から地方新聞に小作品を掲載するようになった。
 私の初期の作品は多くが農村について書いたものである。私自身農村に生まれ、戦争年代全体も高山密林の間を転々とし、あばら屋や土の家で生活し、比較的熟知している対象はやはり農民である。このため土地改革運動の中、貧困な農民は封建地主階級に対して血の涙を絞る告発をした時、すぐさま私は共鳴を感じ、彼らと同じ涙を流し、同じような憎しみが生まれた。我が国の農民の運命、彼らの苦痛な境遇、生き生きとした姿、活発な言葉が心の中をぐるぐる行ったり来たりする。農民達は自分の感情を「民歌」で表す。このことを私はとても愛好する。このため、この期間私は農民が好む民歌形式によって、我が国の農民が解放闘争から立ち上がったことを反映する長編叙事詩、『王九訴苦』『死不着』『野女児』などの作品を書いた。そして、当時の解放区新聞に掲載した。
 全国解放後、詩歌、散文を除いて、部隊の生活や農民の生活を反映する短編小説を書き始めた。出版したものには小説集『婚事』、『考験』『一簍油』『有我無敵』など。詩集、『死不着』『将軍和他的戦馬』など。抗アメリカ朝鮮援護戦争に参加していた期間、長編叙事詩『金玉記』、通信報告集『祖国、イ尓的児子在前線』、劇本『血縁』といくらかの短詩を書いた。
 農村合作化開始から人民公社が成立した数年の間まで私は主に農村に深く根づいた生活をしていた。その時、農民は個人経営経済によって、ようやく集団化に向かい始めた。農村の変化は比較的大きく、生活の中でいくらか新しい矛盾が見うけられ、土地改革を通じた後我が国農民の新しい精神状態も見うけられた。その時、農村生活を反映した短詩や短編小説などを執筆した。この後、私の生活面は南から北まで農村が次第に開けてきたことにより沿海や辺境の地を訪れた。祖国の社会主義建設を反映する詩歌や小説などを執筆し、作品の題材は以前より少し拡大した。この期間の間、詩集『社里的人物』、『家郷的春天』、『公社一家人』、『礼花集』、『村風』、『西行剪影』、『紅旗頌』、小説集『梅河散記』、『飛雲港』、『赴湯蹈火』、『埋在心底的仇恨』、『趙全一案件』などを出版。
 「四人組」の粉砕以後、三年近く私は療養するほか、創作方面で『周総理呵、就在我イ門身旁』、『イ尓与太行同高』など革命をしのぶ先人の詩歌や、『辺区的山』、『難忘的歳月』など革命を思い出す伝統的組詩を書き、『自賞詩』を題とする過去の短詩を整理、発表した。これのほかに、過去に書いた長編小説の一部を修正し始めている。
 文学創作の道のり上、私はまだ目下の学生であり、優秀な作品を書くことができない上、「四人組」によって十年間の荒廃がもたらされた。今後やりなおす努力をしなければならない。

『中国現代作家伝略(下)』・四川人民出版社・1983年5月

作品集・単行本

江南草 上海文芸出版社 1982. —
西行剪影 百花文芸出版社 1963. —
七月走関東 北京十月出版社 1985. —
張志民抒情詩選 文化藝術出版社 1987. —
詩説 上海文芸出版社 1986. —
中国新文芸大系,1949-1966 詩集 / 張志民主編 中国文聯出版社 1990.–

研究資料

『中国当代文学研究資料 張志民研究專集』新疆人民出版社 1986.5

作成:黒田 良子

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