白樺自伝
本名陳佑章、1930年河南省信陽市の地主の家に生まれる。
1938年故郷が日本軍により占領され、父は日本軍に協力するのを嫌って、生き埋めにされた。私はシ黄川県に流れつき、1943年シ黄川中学に入学、その二年後故郷に戻り、信陽師範学校の芸術科に入学した。さらに、翌1946年、シ黄川中学の高等部に進み、学生運動に参加、新聞や自分で編集した印刷物に、詩、散文、雑感などを書いた。
1947年秋、国民党特務の追跡から逃れるため、豫西の地に潜伏し、そこで中原野戦軍第十三旅団に加わり,宣伝員として、宣伝画をかき、戦地詩のビラや、戦場レポートなどを書いた。1949年には宣伝幹事となり、1950年初めて雲南に進軍、全国的な出版物に自分の小説を発表しはじめる。
1954年中国作家協会に加入。1958年右派とされ、党及び軍隊から除名、工場で組立工として働いた。1964年に再度軍隊に入りなおし、武漢部隊で創作員となった。「文化大革命」の十年が私から自由と執筆の環境を奪った。
1976年10月、話劇『曙光』で文壇に返り咲く。1958年の問題については、79年の「改正」を受け党籍を回復した。
1985年7月上海に移り中国作家協会上海分会の専属作家になる。現在の職務は、中華全国文聯委員、中国作家協会理事、中国映画家協会理事、 中国作家協会湖北分会副主席、中国映画文学学会理事である。
創作談――血と涙から来る憤激
文学作品は当然客観的生活の反映であり、また作家の生活に対する認識(主に情感)の反映でもある。作家の生活に対する認識や情感が、完全に実際生活あるいはある種の思想的規範と一致することはありえない。だからこそ個性というものが備わるのだ。大多数の血も涙もある作品は憤激から生まれる。しかしこの憤激はまさに最も広範な社会的憤激なのだ。
私は人に理解されない作品こそが優れた作品だとは考えない。私は作品のなかで多くの読者の理解と同情を勝ち取ろうと努めている。それは私に力を与える。それは私の生活と創作に自信をもてる根本的な原因なのだ。
思考と想像は創作の二つの翼であるが、水や火のなかで何度も転げまわってきた血と肉をもった心も持たなければならない、と考える。作品の中に作家の感情、主観的な激情を直接表すことを私は排斥しない。友人や家族に自分を見透かさせると同時に、敵にも自分を見透かさせるのだ。だが大自然に対しては、一人一人の自然に生きる人々に対しては、私はやさしくふるまう。人を陥れず、一人の個人として存在する仇敵に対しては報復をしない。報復を考えたこともない。
賞をとりたいがために権威や「時流」に迎合することをせず、創作においてはただ歴史に対してのみ責任を全うする、それだけである。
(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)
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