朱自清

Zhū Zìqīng
朱自清
しゅ・じせい

(1898-1948)

朱自清小伝:

 現代作家。本名自華、号は秋実、字は佩弦、筆名は佘捷、柏香、知白などがある。祖籍は浙江省紹興で、江蘇省東海うまれの揚州そだちである。1916年北京大学予科に入学、翌年本科の哲学系に移った。1919年の「五四運動」の後、少年中国学会および新潮社に参加、新詩の創作を開始した。1920年に大学を卒業し、浙江省杭州第一師範、上海の中国公学、浙江省上虞の春暉中学などで教鞭を執った。1922年兪平伯らと中国現代文学史上最初の詩歌の刊行物『詩』月刊を創刊、翌年著名な長詩「毀滅」を発表した。この間、文学研究会にも参加している。

 1925年に清華大学の教授となり、それ以後は散文の創作と古典文学の研究に力を注いだ。彼の散文の名作「槳声灯影裏的秦淮河」「緑」「春」「背影」「荷塘月色」などは、この時期に創作されたものである。彼の散文は、真実の実感を平易な叙述で表現するのに長けており、そのタッチは、簡潔、素朴、やさしく、感動的であり、文学界で高い評価を得、「美文」「口語美文の模範」と称賛された。

 1931年イギリスのロンドンに行き、言語とイギリス文学を学び、さらにヨーロッパの数カ国を漫遊した。翌年帰国すると、清華大学中国文学系の主任となった。1934年には『文学季刊』および『太白』誌の編集員をつとめた。

 1937年、抗日戦争が勃発すると、大学の移転に伴って、湖南省長沙さらに雲南省昆明へと移動した。清華大学は、北京大学、南開大学と合併し、西南聯合大学となり、朱自清は中文系の主任に任ぜられた。1938年には、中華全国文藝界抗敵協会に参加し、理事に選ばれた。この時期、彼は積極的に抗日愛国活動に参加し、その思想にも積極的な変化が見られた。

 1945年、抗日戦争勝利後は、積極的に民主運動に参加した。1946年に李公僕、聞一多が暗殺されたことは、彼にとって大きな教訓となった。同年、清華大学は北京で復活を遂げ、彼は引き続き同校で教鞭をとることとなった。彼は固く民主革命の側に立って、内戦に反対し、民主宣言上に署名を行った。彼は臨終の時まで、家族に「アメリカの支援」を拒絶する署名をしたので、政府から配給されるアメリカの小麦粉を買ってはいけないといい含めた。毛沢東は彼が民族的英雄の気概を見せてくれたと称賛した。彼の著作には、詩集『雪朝』(兪平伯らとの合作)、『踪迹』(詩および散文集)、散文集『背影』、『欧遊雑記』、『你我』、『倫敦雑記』、評論集『経典常談』、『詩言志辨』、『新詩雑話』、『標準與尺度』、『論雅俗與共賞』などがある。解放後、『朱自清選集』、『朱自清詩文選集』、『朱自清序跋書評集』、『朱自清古典文学専集』などが出版され、さらに比較的完備した10巻本の『朱自清文集』も出版されている。(周葱秀)

(『 中国文学大辞典』4巻 天津人民出版社 1991.10)

作品集・単行本

『朱自清詩選集』香港匯通書店 1977.5/2.80港元
『論雅俗共賞』港青出版社 1979.5/5.20港元
『朱自清古典文学論文集』上・下 上海古籍出版社 1981.7/2.95元
『朱自清』中國現代作家選集 三聯書店香港分店 1983.5
『踪跡』亞東圖書館 中華民國13年12月 上海書店影印 1985.6
『荷塘月色』人民文学出版社 1988.12/2.00元

『朱自清選集』香港・文教出版社 6.50港元
『朱自清全集』文化図書公司 12.00港元
    
参考書

『最完整的人格――朱自清先生哀念集』張守常編 北京出版社 1988.8/3.25元
『朱自清年譜』姜建、呉為公/編 安徽教育出版社 1996.5
『傾聴朱自清』吾人/選編 CD付 中国廣播電視出版社 2002.1

参考

 1924年7月に「O.M.」を編集人とする『我們的七月』が亜東図書館から刊行された。これは表紙絵のみ豊子愷の名が記されているが、収められた30数編の文章にはいずれも署名がない謎めいた本であった。その後1925年6月に、同じ「O.M.」の編集になる『我們的六月』が刊行されるが、文の作者として、朱自清、兪平伯、劉延陵、顧頡剛、沈尹黙、葉聖陶、劉大白らの名がクレジットされ、巻末の付録に『我們的六月』の執筆者目録が掲載されたことで、両書がほぼ同じ同人によるシリーズであったことが明らかになる。1920年代中期の若いインテリの活動の足跡と考えられる。

『我們的七月』亜東図書館 1924.7 上海書店影印 1982.12
『我們的六月』亜東図書館 1925.6 上海書店影印 1982.12

作成:青野繁治

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