Zōng Fúxiān
|
(1947- ) |
宗福先自伝:私の祖籍は江蘇常熱であるが、生まれは四川省の重慶市で1947年2月のことだった。 後にその美しい山の町に帰ったことがあるが、「霧の重慶」はその名に相応しいものだった。しかし、まさにその霧が多く、湿気が高かったことが原因で、私は幼年時代よく病気をした。ところが、それで身体が弱かったために、両親は心配して、私が外に腕白をしに出かけないように、色々な本を与えて私を「買収」した。「絵を見て字を覚える」から「連環画」へ、そして「西遊記」から「デビッド・カッパーフィールド」といった具合である。もちろん、それは両親が知識人で文学を好んだからで、そうでなければ、別の方法を考え出しておとなしく私を家に引きとめさせることができたはずだ。例えば棍棒を使ったりして。 私は1968年に上海市の延安中学を卒業した。そのころは誰も私が大学に行くチャンスを失って悲しんでいることなどにかまってくれなかった。私は従業員がたった200名の上海熱処理工場に入り、高温炉を前に働くようになった。12年間の労働者生活は、幼年期の100冊を越える本と同じくらい今日の私にとって重要な意味をもった。私は決ったレール上からはじき出されて、全く見知らぬ世界に放り込まれた。それは私の視野を広げてくれたばかりでなく、根本から私の考え方を変えてしまった。私は、自分自身の世界の外に、もっとたくさんの世界があることを理解したのである。それからは余り自信たっぷりではなくなり、永遠不変のものを信じなくなった。同時に、自分の無知と無能から奮い立って、無限の渇望と追求を行なうなかで、しっかりとした自分を見つけ出すことができたのである。 1978年に私は「声なき処に(于無声処)」というドラマの台本を書いた。これは自分と周囲の普通の人々の「天安門事件」(1976年の第一次天安門事件)に対する受け止め方をありのままに描き、「人民が永遠に沈黙するはずがない」という簡単な道理を説いただけである。この作品がその後引き起こした反応は私の予測しなかったものである。私はこの作品が私のその後を変えてしまうとも予測できなかった。1979年私は中国作家協会及び中国戯劇家協会に加入した。1980年私は工場を離れ、上海工人文化宮で文芸創作に従事することになった。その後、1985年に今度は作家協会上海分会に専業作家として配属された。同年、中国作家協会理事及び中国戯劇家協会常務理事に選ばれている。 唯一の憧れ最初の工場での生活に感謝したい。私は今でも自分の世界の外にあまたの世界があることが分かっている。自分の無知と無能が分かっている。私が唯一憧れるものは依然として追求である。 『中国当代作家百人傳』求実出版社 1989 |
作品目録「入党」短篇小説 『文匯報』1978.10 |
邦訳『声なき処に』戯曲 北京外文出版社 1979 |
作成:青野繁治 |