孫伏園

Sūn Fúyuán
孫伏園
そん・ふくえん

 (1894~1966)

 孫伏園簡介
本名福源、字は養泉。ペンネームは伏廬、柏生、桐柏、松年など。1894年生于浙江省紹興に生まれる。山会师范学堂(今の绍兴文理学院)、北京大学で学び、2度魯迅の学生になった。现代散文作家で著名な副刊(新聞で文学作品・学術論文を毎日または定期的に載せる特別ページ、特別欄)の編集者。
 孫伏園年表
 1894年浙江省紹興の一般家庭に生まれ、幼少期から家庭内で勉学に励んだ。

 
1918年周作人の紹介で弟の孫福熙と共に北京大学に聴講に行き、二年目で正式な学生として編入した。そして北京大学在学中に文学团体の新潮社に加入した。
 
1919年北京で《国民公报》の副刊編集に就任。《国民公报》が段祺瑞政府のスキャンダルを報じたことで差し押さえられたため、孫伏園は《晨报》の記者になった。
 
1920年,彼と茅盾、郑振铎等らは著名な文学团体の文学研究会を発足させた。
 

1921年に北京で《晨报》の副刊編集者になり、“副刊大王”と称された。鲁迅の名作《阿Q正传》この雑誌で初めて発表された。のちに《京报》の副刊主編にもなった。1927年3月《中央日报》副刊編集を務める。

1924年10月、鲁迅の諧謔诗《我的失恋》を発表しようとしていた時,代理主编の刘勉との間に衝突が生まれ、孫伏園はそれに伴って辞職し、《晨报》を離れた。同年11月に@他与鲁迅等人发起成立语丝社,出版语丝周刊。12月初,接受了邵飘萍的邀请,主编《京报副刊》。

1927年3月

招待に応じて武漢で漢口《中央日报》副刊を主編した。

武漢国民政府の時期には毛沢東の《湖南農民運動考察報告》や郭沫若的の《脱离蒋介石以降》などの文章が発表された。“寧漢合流”の後、武漢《中央日报》は停刊となった。

同年冬孙伏園は上海に行った。

上海に戻ると嘤嘤书屋を創設し、半月間の《贡献》を出版した。1928年に《当代》を主編し、フランスに留学。抗日戦争時期は重慶中外出版社の社長を務めた。

1931年帰国した後に河北定県中華平民教育促进会文学部で主任を務め、平民文学教育を推し進め、《农民报》を主編し、雑誌《民间》の主編に参入した。

 
1936年10月に魯迅が亡くなると、《晨报》副刊の編集にあたっていた孙伏园は一編の追悼詩(挽联)を書いた。
 
 
  “踏莽原,刈野草,
  热风奔流,一生呐喊;
  痛毁灭,叹而已,
  十月噩耗,万众彷徨。”
 
 
 
  果てしなく生い茂る野原を踏み、野草を刈り、
  熱風が激しく流れ、一生声を上げて叫ぶ。
  痛みは壊滅し、嘆くに過ぎず、
  十月の訃報、全ての人は彷徨う。
 
 
この詩には魯迅の著書名及び主編雑誌名がつづられており、深い意味はないものの、構想は精巧で、滅多にない絶妙な詩である。《》内が魯迅の著書名及び主編雑誌名である。“踏《莽原》,刈《野草》,《热风》《奔流》,一生《呐喊》;痛《毁灭》,叹《而已》,《十月》《噩耗》,万众《彷徨》。”
 
1937年湖南衡山実験県の県長を務める。抗戦爆発の後に重慶に戻った。

1939年3月、 中华全国文艺界抗敵協会の理事に選ばれ、後に国民政府军事委员会設計委员と《士兵月报》社社長、齐鲁大学国文学部主任、大竹郷村工作人員訓練班主任を歴任した。

1941年初,重慶《中央日報》社社長陳博生の招待を受け《中央副刊》の主編をしたが、後に郭沫若の歴史劇《屈原》を発刊したことで解職された。

抗戦に勝利した後、成都華西大学文学院、齐鲁大学、四川大学中文系で教鞭をとった。

1945年に成都に行き、华西大学和铭贤学院で教え、同時に成都《新民报》を主编した。

1949年前半に成都《新民报》の主筆兼副刊主编を務めた。

1949年7月北京で第一次全国文代会に参加し、全国文联委員に選ばれた。

建国後、政务院出版总署版本图书馆の館長に任命された。

1954年冬脳溢血で倒れ、半身不随に。

1966年北京で病没。享年72歳。

 評価
 史学界での評価では孫伏園の一生において従事した主要な事業は二つある:副刊の編集と平民教育だ。彼は六編の新聞副刊を主編し、大量の副刊編集経験を積み重ね、新聞副刊を研究した文章を発表し、副刊編集の思想を発表したことで後の新聞史学界で「副刊大王」と称された。
 著作
《伏园游记》 上海北新书局 1927年
参考書
 
 作成:矢野葵

  

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